Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「大岡信 架橋する詩人」 第2章から

2021年09月09日 21時38分13秒 | 読書

   

 あまり読書は進まず。
 「大岡信 架橋する詩人」の第2章につぎのような著者の言葉があった。いろいろと議論はありそうな指摘ではあるが、とりあげてみる。
「六〇年安保の衝撃が六〇年代詩を生み出し、六〇年代末から七〇年代初めの大学紛争という「政治の季節」が七〇年代詩を生んだ。この時期に日本の詩は、近代以来の抒情性や調べの世さ、「一編の作品としての形式および主題における完結性といった、それまで価値を持つとみなされた要素が転倒され、本質的な見直しを迫られたと思われる。その代償として、一般に現代詩は難解となり、極端にいうと、詩人以外の人々を寄せ付けない物となった。八〇年代の私にとっても、近代詩のような「分かりやすさ」はそこにはなかった。‥勝手な解釈も含めて、独特な「読む面白さ」があるにはあった。」

 まず画廊を経営していた志水楠男の死を詠んだ「高井戸」全編を引用しているが、私の知っている後半だけを取り上げてみる。

 (前半略)
 舵・櫂・エンジン・綱・帆・ 帆柱
 これらほど頼りにならないものもなかつたとは。
 ひでえもんだ、でもいいももう。おやすみ。
 もっともよく戦った者だけが、もっとも深く
 眠る権利を有するのだ。おやすみ。消える友よ

 六〇年安保の衝撃について、次のように述べている。
「安保闘争は詩壇にも衝撃をもたらし、「六〇年代詩人」と呼ばれる一群の詩人たちが出現する背景ともなった。‥大岡より数歳年少の人々である。大岡が与えた表現によれば、「現実認識が詩的行為であり、詩的行為がそのまま現実認識である世代の誕生」だった。彼らの手で近代以来の詩的表現は根底から解体されたといえる。以後しばらくは、ラジカルな実験性と暴力的なまでの鮮烈さや疾走感こそ「最先端の詩」の特徴となった。」

 大岡信自身の言葉として次のような引用がされていた。
「ここで紹介する五人の詩人は、いってみれば〈広島以降〉の世代にぞくしています。‥ひとつの都市、そしてひとつの文明そのものの完全な破壊ののちにしか、平和というものを知ることのできなかった世代です。‥[日本の敗戦]は同時にアメリカ軍の占領の開始であり、疑わしい平和の開始でした。‥この疑わしい平和のイメージ、人がそこに到着する前にすでに前もって破壊されてしまった平和のイメージが、日本の現代の若い詩のすべてを支配しています。」(大岡信「眼・ことば・ヨーロッパ」)

 


夕焼けは寂しかった

2021年09月09日 18時30分14秒 | 天気と自然災害

 夕方4時過ぎまで降っていた雨がようやく上がった。夕焼けが美しいかと思ったが、まだ雲が多く、残念ながら不発。富士山は微かにのぞいているが、丹沢山塊は見えなかった。
 特に南の空は厚く、そして黒い雲がかかっていた。気象庁の雨雲のレーダー画像では南の空の雨の区域もまもなく東に去っていくようだ。明日の天気は期待はできるのであろうか。
 一日中家に閉じ籠もっているのはつらかった。5時になって歩いて10分ほどのところにあるドラッグストアに買い物。家では半袖のポロシャツでは涼しかったが、夕陽が当たると蒸し暑かった。
 店の傍の小さな公園には待ちかねたように子供が走り回っていた。

 


「日本美術の歴史」から 2

2021年09月09日 13時45分28秒 | 読書

   

 「日本の美術の歴史」(辻惟雄)の続き。すでに私にも既知のことはあるが、私なりの著者の記載の要点を記しておきたい。本日は第2章「弥生・古墳美術」を読んだ。

「縄文人は定住して狩猟とともに採集もやり、補助的ながら穀物栽培も行ったし、弥生人は、狩猟の対象である鹿を神の遣わしと崇めてもいた。フォッサ・マグマを超えた東日本では、‥縄文式と弥生式との葛藤そのものが形になったようなぎこちない土器がむしろ一般的であり、稀には‥両者の調和のとれた融合の例もある。両者の間には断絶よりもむしろ連続がある。縄文的なものと弥生的なもの、岡本太郎が提示したこの二つの美意識の異質性は、決して否定できない。前者を原日本人の土着の美意識、後者を日本が東アジア文化圏に組み込まれてからの混血の美意識ということもできる。大陸的なものも‥縄文人が長い時間をかけて培った原初の美意識の系脈は、簡単には消失しなかった。文化の地底や周縁に潜んで、時折その顔をのぞかす。」(一「縄文に代わる美意識の誕生[弥生美術]」)

「装飾古墳が描かれたと同じ時期、高句麗でも墳墓の壁画が盛んに描かれた。‥中国や朝鮮の墳墓壁画とくらべ、日本の装飾壁画の特色は同心円文‥など抽象文様が多い点にある。‥動物などの具象文も盛期に描かれたが、それらの描写も多分に抽象的であるり、‥平面的羅列にとどまる。‥だが、モチーフの写実的再現のみを絵画の優劣の基準としない現代の見方からすれば、装飾古墳にも大きな価値がある。‥彩色は豊かで美しい。描き手の呪術の力が込められているのを見るのも印象的である。‥死者へのはなむけとしての「かざり」への意欲と情熱は失われてない。」(二「大陸美術との接触[古墳美術]」)

 「美術」として縄文・弥生の遺物や装飾古墳を見る視点に注目した。

 行燈山古墳を崇神天皇陵、大仙陵古墳を仁徳天皇陵とするなど現在の一般的な表記と違う表記は気になるが、世代的にはなかなかこれらの表記がまだまだ通じてしまうのだろう。このような表記が自然と口の端に登らなくなるのはいつになるのだろう。