「大岡信 架橋する詩人」(大井浩一、岩波新書)を読了。終章に以下のような文章が並んでいた。大岡信の戦後の詩史、文学史、文化史、思想史できわだっていることとして、
「一つ目は詩作にしろ散文にしろ、言葉の選択が明晰で、表現として個性的な輝きを放っていること。二つ目に、批評の面で通時的にも共時的にも、すなわち古今の歴史の流れにおいても同時代の芸術文化諸ジャンルの平面においても、見通しがよく利き、バランスの取れた把握ができること。三つ目は、‥創造的な行為の本質を他者に開かれたダイナミックな営みとして捉え、またそのような創造の実践に努めたこと――である。総じてこれらの特徴は、人間への信頼と、未来への肯定的な姿勢を彼の作品にもたらした。」
「東西冷戦下の80年代においては同じ消費社会を論じた話題作でも山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」以上に吉本隆明の「マス・イメージ論」が読まれていた印象が私にはある。」
「さまざまな主義主張を持つ人々と付き合う際、大岡はある方針を立てていたように推測される。個々人のどのような考えにも、「教条」に陥らない限りは耳を傾ける、というものだ。たてえ党派性の強い人間であっても、その人が生み出す文学、芸術の創作物のうち「教条的でない部分」に目を注ぎ、評価しようと務めたように見える。要するに、世に生きて何らかの政治性を帯びない者などいないのだが、創造的活動に対しては、政治性ではなく、その文学性、芸術性で価値判断するという至極まっとうな態度である。しかし特に1950~70年代の「政治の季節」において、それは言うは易く行うのは困難な道筋であったにちがいない。」
最後に引用した個所は、言わずもがな、とは思うが、一応私の日ごろの振舞いの基本でもあるので、とりあえず記しておくことにした。ただし、「「教条」に陥らない限りは耳を傾ける」だけでなく、「国家や宗教を前提とせず、自分の生活の部分から世の中を見据え、自分の頭で考えようとしている限りは耳を傾ける」というのが私の思いである。