退職者会の月曜日の役員会と幹事会に提出する資料作成の宿題、本日はとりあえず終了。明日は所用があり、昼前から出かけて、帰宅は夕食後の予定。明日の夜にまた宿題をこなす。月曜日までに終日作業できる日は木・土・日の3日間。サボらなければ何とかなりそうである。
意外と油断をしていたのかもしれない。宿題3題はすぐにこなせると踏んでいたのが間違いであった。またそのうちの1題はちょっと頭の中で消えかかっていた。これは迂闊であった。
残念ながら、月曜日までは読書は遠慮して宿題に邁進することになりそうな気配である。お酒も控えめにしておきたい。
しかし不思議なもので、何かに専念しなくてはいけないとなると、別のことに対する興味が湧き上がってくる。これは10代のころから変らない。その日のうちに仕上げないといけない宿題を始めると、他の教科のことが気になったり、小説を読みたくなったり、ラジオを聴きたくなったりしたものである。そんなことを洩らすと「集中力がない」などという心無いレッテルを親から貼られたりしたものである。
今でも何かに集中し始めると、何か外の事をしたくなり、二つのどちらを選択するか、第一と第二の自分が葛藤する。そんな葛藤をしている自分を、冷やかに高所から眺めている第三の自分の存在もとても気になる。高所から眺めている第三の自分は「何をやっているのだろう」と他人事のようにつぶやいている。葛藤が激しくなればなるほど、第三の自分の存在が大きくなる。
これは就職してからいよいよ顕著になってきた。給料をもらう仕事では、年末や年度末に押し寄せてくる深夜まで何日も職場で一人で残業が続く仕事の場合でも起きたが、その確率は低い。
それよりも労働組合活動で、抱え込んだ業務を深夜から明け方までかけてワープロやパソコンと睨めっこしているときに無性にクラシックのCDを聴きたくなったり、現代詩を読みたくなったりした。またそんな葛藤をする自分に呆れている第三の自分もごそごそと動き始めていた。ときどきその第三の自分の存在がとても鬱陶しくなるものである。
定年後、組合の役員を卒業してからはあまりそのような分裂は起きていないが、ときどきこんなこともある。
きっと疲れているのと、間に合うのかという焦りがどこかにあるのかもしれない。