Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

芸術新潮6月号から

2016年05月27日 13時24分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨晩は芸術新潮6月号の「朝井まかて×日野原健司 知られざる女絵師・応為とは何者か」を読んだだけでそのまま寝落ちした。
 「吉原格子先之図」は知られており、私も大いに惹かれる作であるが、影の部分の彩色の微妙な差など教えられた。私が惹かれる作は「夜桜美人図」でこれも取り上げている。
 北斎作と云われる「富士越龍図」(1848)は龍を除いて応為が描いたのではないか、という指摘はなかなか大胆である。当否は別として惹かれる。
 好みで言えば「関羽割臂図」には惹かれない。人体の在り様があまりに江戸時代的な誇張と無理がありすぎる。私はこのような人体表現を見ると拒否感の方がどうしても強くなってしまう。私が感覚的にしか絵画を見ることができない証左でもある。もう少し冷静に見ることが出来ればいいのだとは思っているが‥。たぶん浮世絵の顔の表情や歌舞伎の人体表現がどうしても受け付けられないのと共通しているように思うが、それ以上考えることが出来ない。

 今晩からはNewton7月号の熊本地震の記事にに目をとおす予定。

雨と風の強弱

2016年05月27日 11時36分49秒 | 天気と自然災害
 本日は休養日。
 雨が日付が変わったあたりから昼過ぎまで降る予報となっている。朝の内は風が無く、1時間あたり5ミリ未満の雨が音もなく静かに降り続けていた。先ほど一時的に雨と風が強まったが、次第に弱まっている。「レインアイよこはま」を見るとこのあと雨は上がってくる。横浜の東部より西側には雨の区域はない。
 朝の内は、レーダーなどの情報を見ることもなく、寝ながら雨の様子をうかがっていた。硝子戸越しに聴こえる微かな雨の音と窓の明るさだけの判断でも、微かに雨が強くなったと感じる時はある。
 まずは確かに雨が強くなった時。雨が硝子戸などに直接ぶつかる音でわかる時がある。そして実際に雨が強くならなくても、風が強くなった時、および風向きが変わった時には雨が強くなったと感ずることがある。風が強くなって木の葉の音が騒がしくなった時と、風の方向が変わることで葉にあたる雨の方向が変わって音が大きく聞こえる時である。これは意外と騙されやすい。また樹木が無くとも硝子戸や窓に風があたる音が大きくなると雨が強くなったと勘違いすることがある。多分雷が近くで鳴り始めると雨が強く感じることもあるかもしれない。ただし雷が近づくとほとんどの場合は雨は強まっている可能性が高い。

 雨と風という気象現象は人の営みにとっては重要だが、近・現代の都市生活者にとっては鬱陶しいだけの現象になってしまっている。雨の微かな強弱の変化などに気を取られていては都市生活が成り立たない。多分気温と湿度と太陽光線にはまだまだ敏感であるが、すくなくとも雨と風という気象要素は意識的に敏感にならない限り、このふたつがもたらす「豊かさ」やそれと背中合わせの「危機」を察知することからおのずと遠ざかっている。気温と湿気もそのうちに意識から遠ざかる日も近いような気がする。

「芸術新潮」6月号

2016年05月26日 23時08分17秒 | 読書
   

 キリスト教の旧約聖書はとても理解が出来ない話が多い。私などにはとても理解できない神の行動や判断、あるいはそれに翻弄される人間の戸惑いや行動が克明に、そしてエロティックに、暴力的に・極めて残忍に描かれてきた。ここの部分はなかなか西洋の歴史や社会の内部にいないと理解できない。あるいはそのような「内部」にいても理解できない途惑いを描いているようにも思える。。
 しかし一方で、神の存在による人間社会への強い規範にも拘わらず存在する人間相互の不信と悪意・裏切り・奸計‥、さらにそれにも翻弄される人々を、旧約聖書のエピソードを縁としてさまざまに描かれてきた。こちらは私から見れば、「人間社会一般」に普遍的なものとして共感できるものがたっぷりある。西洋の近代化が全地球的に普遍化し、ユーラシア大陸の東端の列島をも覆った現代の社会結果でもある。
 こんなことを思いながら、芸術新潮6月号の「仁義なき聖書ものがたり-旧約聖書ヴァイオレンス・ガイド-」に目をとおした。
 さらに付け加えるならば、旧約聖書の世界よりも新約聖書の世界はやはり身近である。

 特集記事以外の記事に今晩は目をとおして就寝、の予定。

本日からの講座は「平家物語のこころに親しむ その10」

2016年05月26日 18時41分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日からの講座は、「平家物語のこころに親しむ その10」(講師:鈴木彰立教大学教授)。
初回の今日は覚一本巻3の重盛の追悼説話から平家物語の虚構が「史実」とされることを題材に「文学」の受け取られ方、読まれ方について言及があった。
 
「平家物語のやさしい読み方」と交互に行われることになる。

 本日は昨日の疲れから、半分ほど夢の中で聞いたようだ。もったいないような気にもなったが、眠気には勝てなかった。恥ずかしいような気分でもある。

 お昼はおにぎりをビル風に吹かれながら、帆船日本丸をのぞむ階段で食べた後、喫茶展でボーっとしていた。歩いて横浜駅まで戻って、芸術新潮6月号とNewton7月号を購入して帰宅。
 先ほどまでまたうつらうつらとしていた。飲み過ぎはやはり体に良くない。回復が昔より遅くなっている。



芸術新潮6月号&Newton7月号

2016年05月26日 16時27分43秒 | 読書
   

 本日の講座終了後、書店で芸術新潮6月号(1439円)とNewton7月号(1199円)を購入。
 2冊同時というのはチョイと財布につらい。若冲展の入場と図録代がかからなかったので思い切って購入した。
 日経サイエンス7月号も熊本地震の特集なので購入したいと思っているが、本日はこの二冊にとどめた。

 しかしオジサンとしてはこの芸術新潮はレジまで運ぶのはなかなか勇気がいる。本日はこの2冊に眼を通したい。


「高島野十郎展」(感想3)

2016年05月25日 23時52分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 淡い色調の画面に最初は戸惑いを感じたが、屋敷林と藁葺と思われる家屋、枝分かれしてかなりの部分まで埋まっている樹木、そして丁寧に書き込まれた降り続く雪と、すでに降り積もった雪、これだけしか描かれていない。
 解説によれば画家が愛した山形の冬景色となっている。下3分の1の雪よりも、上3分の2の降り続く雪の描写が印象的である。時に赤っぽい背景と落ちてくる雪片が丁寧に描きこまれていると思う。あまりたの作家のこのような描写を見た記憶がない。吹雪いてはいない。地上のものをすべて包み込むような雪である。日本海沿いの強い風が吹きすさぶ雪の降り方ではない。きっと最上川沿いの奥羽山脈と出羽山地に囲まれた地域の風景ではないか、雪の降り方ではないか、と勝手に想像している。
雪に包まれた家屋には灯りは見えないが、少し赤みがかった屋根をしている。屋根の下の温もりを暗示しているようである。
 奇抜な要素はどこにもない。落ち着いた静かな画面が私の気持ちを惹いて止まない。

 通りがかり人様もこの絵を推奨されていた。

懐かしい友人に再会

2016年05月25日 22時05分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は風が強く、一昨日・昨日よりも湿気が多く、不快な陽気であった。

 朝から退職者会の集まりがあった。現役時代、それも20代から30代前半の頃に仕事で大変世話になった人と会ってとても嬉しかった。局が違い、私の方が「許可権者」という立場であったが、ひとつ違いということもあり、楽しく付き合わせてもらった。組合の関係でも、単組が違うのだが、共通の知り合いもあり、向こうが「申請書」を持ってくる月曜日、許可書を取りに来る金曜日、月末の現地検査立ち合いなど顔を合わせるのが楽しかった。
 移動後は連絡を取ることが無くなり、気にはしていた。今日、私の目の前にたまたま座っておられて、向こうから声をかけてもらった。再会を機会にまたお付き合いをしたいものである。

 後半は横浜市の担当者から「横浜市の地域包括ケアシステムの現状(介護保険制度)」について講演をしてもらった。横浜市の人口約372万で、高齢化率は23.1%、86万1千人という現状の分析と課題についての講演であった。2025年には65歳以上の高齢者数が100万人を超える予想なのだが、なかなか自分のこととして想定できないものである。
 この会合が終了後、別の友人たちと中華街などで飲み会に参加したことは先ほど記載した。

野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」

2016年05月25日 21時27分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職者会の会合の終了後に、退職者会の仲間とは別の友人たちが横浜に来ているので、私を含めて5人で中華街で一次会、野毛で二次会、最後に野毛の伝説のジャズ喫茶「ちぐさ」でコーヒーを飲んで、先ほど帰宅。

    

 「ちぐさ」は野毛の地でも2年前に昔より少し桜木町駅寄りに場所を移して再開していたことに気がつかなかった。店の構えは昔の雰囲気を伝えている。2階に記念館として昔の造作でつくり直してあった。とても懐かしく見てきた。1階では昔のままの味と思われるコーヒーで酔い覚ましをした。
 これからちょくちょくと顔を出したいものである。


本日の就寝前に、何となく‥

2016年05月24日 22時25分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 最近はブラームスにご無沙汰をして、モーツアルとのピアノソナタばかりを聴いている。いつもの癖である。誰かの曲を聴き始めたり、誰かの本を読み始めたらその人の作品ばかりを読み始める。念入りに読み込むということをしないで、わからないところなどはさっさと読み飛ばして次に行く。じっくり腰を据えて聴いたり、読みこんだりしない。何となく全体の印象がおぼろ気に出来上がればそれで満足する。悪い癖でもある。
 何かの専門家になることのできない性格でもあると思っている。

 このブログにさまざまな印象を記載するようになって、それなりに頭の中は整理できるようになってきたように感じている。印象を記載するということに面白味がある。あまり気負いすぎない方が整理しやすいということもわかってきた。
 そして生真面目に原稿用紙に向かうよりも、ワープロソフトの画面に向かって片意地張らずに書き続けることの方が楽である。校正も書き直しも、付け加えも簡単にできる。
 今、宿題として頭の中でどうにかしたいと思っているのが、高島野十郎の展覧会の感想。2回ほど書いて思考が停止している。
 2010年の時の印象はすぐにかけた。今回ははじめにたてた「戦争をどのように潜り抜けたのか」という視点があまり意味の無いこだわりのように思えてきた。次の視点を探り始めてそのままになっている。頭の中で引っ掛っているものは早く出してしまいたいのだが‥

モーツアルト「ピアノソナタ#1、#14、#17、幻想曲K.475」

2016年05月24日 21時23分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 私は第17番、第14番は好みの曲である。同時にここに収録されている幻想曲K.475もまた印象深い曲である。
 #17は1789年モーツアルト33歳、最後のピアノソナタである。こじんまりとした感じがいい。
 #14は劇的な効果を狙った曲とも云われている。第1楽章と第3楽章の間の、長い第2楽章の静かな消え入るような楽想が印象的である。第3楽章は明るい動機とこもるような動機が交互に奏でられる特徴的な印象的である。どこか実験的な曲でもある。
 また幻想曲K.475の人間の意識下に下降していくような感じが私はとても気に入っている。

 このCDでも内田光子の文章が掲載されている。
「人間の内にある時間と空間の感覚は外の世界と別の次元に存在するようである。音楽の空間は人間の内に語りかける。時代が移り、思想や生活様式が変わり、和声の常識がくずされ外部からの刺激がますます強くなっても、音楽は人の内と語り合って生きていく。」

   

さるびあ丸と満月

2016年05月24日 08時14分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 昨日竹芝桟橋で月を撮影した時に停泊していた船の名を記さなかったが、写真に撮っていた。さるびあ丸と記されていた。
 比較的うまく撮れているのにこの写真に気がつかなかった。
 東京-伊豆大島-神津島と、東京-八丈島で使われているとのこと。東海汽船の所有で現在の「さるびあ丸」は、1992年に就航した2代目。800余の客席があると記載されていた。

 夜の荷物の積み下ろし作業風景というのはなんとなく懐かしく思う。昔、小学校低学年の時に青函連絡船に乗って青森-函館を往復したことが何度かある。あの時、不確かな記憶だが、夜に乗船した記憶がある。
 夜間の荷の積み下ろし、夜間に乗船した記憶‥船に関するすべてといってもいい記憶が不確かな闇の向こうに横たわっている。
 私の成長期以降の記憶からは船の存在は実に小さい。船よりも陸路、さらに空路を利用し、ウオーターフロントからも直接には縁遠い暮らしをしてきた。横浜という港町に住んでいるにもかかわらず。


 本日は昨日に続いて気温が高いらしいが、雲が多いとの予報となっている。横浜は昨日はかろうじて30℃にとどかなかった。本日も予報は29℃。本日は午前中から夕方まで外出。

夜のウォーキング

2016年05月23日 22時49分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夜のウォーキングをした。何ヶ月も夜のウォーキングはしていなかった。腰痛のこともあり、本日はあまり時間と距離は気にせず汗をかくことを主眼に歩いた。
 65分、約8600歩、約5.5キロ。気温が高く汗が滴り落ちる程度に歩いた。湿度が高くないので爽快な汗をかくことが出来た。
 心配した腰痛は今のところ心配はなさそうである。
 体重が退職後に減量した時よりも10キロ近くは増えてしまった。普段歩くと呼吸の音が自分でも大きく聞こえる。お腹が重い。そしてすぐに疲れる。
 今日も7000歩近くになった時、少し足元がふらついた。すぐにエネルギーが切れてしまうようだ。これでは夏に山歩きが出来ない。
 腰痛に注意しながら少しずつ距離を伸ばして筋力と持久力の回復と体重減をめざしたいものである。

竹芝桟橋と満月

2016年05月23日 21時02分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の午後早めに竹芝桟橋に到着、桟橋の建屋の上と下でしばらくボーっと岸壁と海を眺めていた。手前の岸壁がおおきくせり出しているだけでなく、対岸の倉庫やビルが視界に入ってしまうので、目に見える海の面積は小さい。しかし波を見ているだけで、普段の生活の時間の流れがガラッと変わってしまう。この感覚は不思議だ。海を見ているときだけに味わう感覚だと私は感じている。
 山で味わう時間の感覚とは違う。こんなにゆったりとした時間感覚にはならない。また湖でも違う。同じ海でも、荒れた海は違った感覚になる。荒れた海では怖れというものが大きくせり出して時間感覚を大いに狂わせると思う。
 そんなことを考えながらベンチに座り、また陽差しを浴びていた。陽射しはあったが、心地よい風が気に入った。船は接岸している船も出向する船もなかった。
 1時間ほどしてから伊豆七島の特産物を扱っている店を眺めたり、伊豆七島行きの船のパンフレットなどを見て回った。特産品ではアシタバや各島の独自の焼酎に視線が吸い寄せられたけれども購入はしなかった。ちょっと悔やんでいる。

 宴会の途中で少し酔い覚ましをしようとホテルの外に繋がる竹芝桟橋のデッキから空を見上げたら、満月が出ていた。先ほどカレンダーで確かめたら月齢15.5の十六夜の月であった。ちょうど接岸している船の横と松の木の間に顔を出していた。
 スマホで撮影してみたが、はやりスマホではなかなか難しいようだ。さまにならない写真だが、記録として掲載しておくことにした。

         

浜離宮庭園と築地場外市場

2016年05月23日 18時09分06秒 | 山行・旅行・散策
   

 本日は昨日の参加者で浜離宮庭園を散策しながら、庭園の説明だけでなく庭園管理の難しさなどを聞いて回った。
 浜離宮庭園はこれまでに2度ほど訪れている。このブログでも取り上げている。2013年の正月2日に放鷹術の実演があるというので出かけたことがある。
 その時に気がつかなかったのが「三百年の松」。約三百年前、六代将軍家宣の時に植えられたという松。地を這うように太い枝がいくつも張っているが、どの枝も添え木で支えられている。立派と云えば立派であるが、人の手が行き届かないと独り立ちできない松である。台風時などの苦労話なども聞くことが出来た。
 庭園内は今の時期はサツキが主で、他の花は咲いていない。ちょうど花の端境期のような時期であった。ツツジの花が終わり、6月に入ればハナショウブやアジサイが咲く。ちょうどキバナコスモスを植えるための準備作業が始まっていた。
 欧米からの観光客と思われる人がかなりいたが、いづれも2~3人、それもカップルが多かった。中島の茶屋で抹茶と菓子のセットをいただいた。

 ここの見学を2時間近くかけた後、築地市場の外周を見学。月曜日であったが、大勢の観光客で賑わっていた。日本人も多かったが、中国語、韓国語、英語、フランス語、タガログ語が飛び交っていた。団体客は少なく、5~6人の団体が多かったように見えた。我々の方が20名と大勢なのでチョイと恥ずかしい気分になった。
 場外市場を散策後築地本願寺の中に入らせてもらい、暫し休憩。13時から昼食をとり解散。

 昨晩は竹芝桟橋で月を撮影したが、本日は写真は取り忘れた。カメラを持って行くことも忘れた上、スマホでも写真を撮影するということ自体が頭に浮かんでこなかった。



竹芝桟橋

2016年05月22日 13時28分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は都内で会合ののち、竹芝付近で一泊。退職者会の活動の一環であるが、現役時代に大変お世話になった他都市の先輩方との懇談である。
 都内ならば宴会後帰宅としたいのはやまやまだが、翌月曜日は朝一番で施設見学会に出かける。ひとりだけ帰宅という特例を要望するのも事務局に申し訳ない。結局一泊することとなった。
 早めに行って竹橋桟橋でのんびり船の出入りを眺めているのもいいかもしれない。

 海というものは、自然の海岸もいいが、港の岸壁の波を見ているだけでも不思議に心が鎮まるものである。船の出入りがあればそれも見ているのもいい。時間の流れが普段とまったく違う世界にすっと入っていってしまう。