Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

恥という言葉を知らない政治家

2016年05月22日 11時09分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 橋下徹という人はタレントとしての毒が売りだったかもしれないが、それをそのまま政治の世界に持ち込むという間違いが未だにわかっていない。政治とは一歩間違えば、人の生殺与奪の権すら持ってしまうのである。政治家の一言は人に希望を与える場合もあるが、絶望もまた与える可能性がある。だからこそ憲法を頂点とした法体系が存在するのでる。にもかかわらず、殺人事件として大きな問題になっているときに、論点のすり替えに躍起となっている。
 沖縄の米軍に対する行動が果たして、アメリカ人一般を排斥しようとしてきたのか。軍隊としての米軍、アメリカ軍の意向が沖縄の人々に犠牲を強いてきた歴史を踏まえ、去ってほしいのである。
 また日米地位協定によって、どれだけの犯罪が見逃され、うやむやにされてきたのか。ご存じないようである。是非以下の報道も見て欲しい。→【http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-201382.html
 人は常に謙虚に人の意見に耳を傾け、その背景を見聞きして学び、理解しようとする姿勢がなければならない。政治家はましてそれが活動の中心であるはずだ。
 沖縄に行って是非戦跡をまわり、戦後の人びとの足跡を見聞し、爆音下の状況、米軍がとその関係者の犯罪の歴史も少しでも知ろうとする姿勢を示してほしいものである。
 もうひとつ、弁護士法には第一条に「(弁護士の使命)弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」と定められている。弁護士として是非弁護士法から勉強してほしい。
 日本の政治家の恥のひとつとして記念に掲載しておくことにした。

どうしても解せない対応

2016年05月21日 21時47分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 この記事は本日5月21日付の朝日新聞の夕刊である。このオレンジで囲った下の記事に注目してほしい。
 まず、「防衛相が抗議」という見出しがある。しかしその記事を読むと「言語道断で抗議する。綱紀粛正に務め、実効性のある具体的な再発防止策の徹底をお願いする」と記載されている。
 抗議する、と最初に延べ最後は「お願いする」である。これが本当の抗議なのだろうか。
 実はテレビのニュースでも中谷防衛相が「きつく抗議した」の次にやはり「お願いしたい」とアナウンサーが言ったのを「おかしなニュースだ」と記憶していた。それを確かめるべく先ほど新聞を見て愕然としたのだ。
 「きつく抗議」したのなら言葉の最後は「求める」である。
 この政府を代表して米軍の在沖米軍トップと会談した防衛相は本当に政府の代表なのか、あるいは国民の代表なのか。ここまで米軍にへりくだるというのはどういうことなのだろうか。
 しかも日本政府の代表たる防衛相がなぜアメリカの代表のアメリカ大使ではないのか?
 在日米軍のトップ(トップが調整官というのもよく理解できないが‥)ではなく「在沖米軍」なのか。そんなに日本政府の閣僚の地位は低いものなのか。交渉相手が違ってはいないか。在日米軍のトップが機構上ないのであれば、やはり大使への抗議が防衛相の役目ではないのか。
 私も労働組合の役員であった。当局が交渉ルールを間違えたり、交渉の最中に不適切な回答をした時には何回か抗議を行った。支部長が交渉に出ていくときは交渉相手の総責任者でなければならない。そして抗議の時は「抗議する」からはじまる私の言葉は「○○とすよう求める」である。「お願いする」と甘くみられる言動など断じて行ってはいけない、と先輩からきつく教わってきた。「お願いしたい」などというようでは組合員が怒るのは当然である。組合の立ち上げ直後は当局も交渉相手を多数派に比して私たちの組合には地位の低い管理職で対応しようとした。これに抗議しながら、多数派と対等の交渉相手を指名して、それを幾度か繰り返し多数派と対等の交渉を実現できた。対応の仕方によって相手は姿勢も、回答も変えてくる。国と国との交渉、初めから嘗められてはいけない。

 さらにこの記事の扱いにも私は首を傾げたい。この記事は社会面、いわゆる3面の下段である。政府の責任者が抗議に行ったのに1面ではない。これはマスコミも政府と同じように日米の上下関係を当たり前のように考えていると判断してもいいのだろうか。
 自国の国民に示しがつかないことをする政府を果たして批判できるマスコミなのだろうか。

 何度でも云いたい。
 殺人という犯罪に「政治日程から見てタイミングの良し悪し」があるなどと閣僚や国会議員がいったり、政治日程や自らの予定が優先する「政治家」の言動が、日本の政治のあまりの劣化と貧困、そして「安全保障のために沖縄に犠牲をしている」ことのうしろめたさをひとかけらも持たない政治思想の退廃が横たわっている。

学生時代の友人とのひととき

2016年05月21日 20時55分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の夜は、学生時代の友人たちと会談というか飲み会。熊本・大分の地震の資料をいくつか頂戴した。これの分析をやり切るだけの能力はないが、この資料をじっと見つめているとあっという間に時間が経ってしまうようだ。少なくとも一週間位は眺めて、いろいろと地震のメカニズムや被害の発生の要員や、今後の成り行き、付近の地質の構造などさまざまなことを想像できるような気がする。

 結論が出なくとも、あるいは間違っていたとしても、じっくりと地質図なり、さまざまの図面・資料を素人なりに見る、観察するということは頭の体操以上に、ものごとを考える・見極めるということにつながると思う。
 資料を提供してくれた友人に深く感謝である。
 18時から22時近くまで、さらにお互いの近況報告など楽しい時間をたっぷりと過ごすことが出来た。

 そのうちの一人とは本日の午後の講座でも一緒であった。

「沖縄を知る-歴史・文化・社会」第1回「辺野古の海・大浦湾で起こっていること」

2016年05月21日 17時09分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日の講座は「辺野古の海・大浦湾で起こっていること」という題で、講師は作家の目取真俊氏。
 私も二度訪れた大浦湾や基地ゲート前などの座り込みやカヌー隊の抵抗のビデオを中心に、沖縄の今を語ってもらった。
 先日来、20歳の女性が惨殺されるという痛ましい事件が、軍属と称する元米兵によって起こされたと報道されている。
 政府の初動の対応、見解表明のあまりのひどさに私は愕然としている。首相は見解を求められ無言で立ち去る。閣僚からは「タイミング的にまずい」という発言が報道されている。
 殺人という犯罪に「タイミングの良し悪し」があり、政治日程や自らの予定が優先する「政治家」の言動が、日本の政治のあまりの劣化と貧困と、「安全保障のために沖縄に犠牲をしている」ことのうしろめたさのひとかけらも持たない思想の退廃が横たわっている。
 この政治家の貧困、そして全地球的な力の支配の跋扈と蔓延にどう希望をつなげていくのか、「云うだけは簡単だが実際は別」という言葉こそが政治家の貧困と力の均衡論を支えている。

来週から「鮎川信夫と「荒地」」展

2016年05月21日 14時46分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 来週からは神奈川近代文学館で、「鮎川信夫と「荒地」展」が開催となる。北川透氏の記念講演「難路を歩む-鮎川信夫の詩が批評であること-」が6月11日に行われる。しかしこの日私は同じ時間の別の講座をすでに申し込んでしまっていた。残念である。
 展示とギャラリートークには参加したいものである。


「一〇〇年目に出会う 夏目漱石」

2016年05月21日 11時42分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 神奈川近文学館で開催している「一〇〇年目に出会う 夏目漱石」展を訪れた。会場はこの文学館では珍しいほどの混みようであった。観覧料の支払いは2~3人待ち程度だが、会場の中は展示物の前は切れ目なく人が並んでいる。ギャラリートークは会場内ではなく小ホールでスライドを使って説明が行われた。
 21日(土)、22日(日)で終了なので両日はかなりの人出が予想される。金曜日の内に見に行って多少はゆとりをもって見ることが出来たかも知れない。
 圧巻は「文学論」稿本。ツイッターで指摘・指摘してもらったが、漱石の手になる赤ペンでの推敲跡は印象深い。私は漱石の「文学論」は何度も挑戦したがいつも跳ね返されている。未だに理解ができず、途中で投げ出したままである。論理の展開をキチンとしようとしている執念を強く感じる。この「文学論」を完成させない限りは、漱石自身が次の一歩を踏み出せないという執念を強く感じた。
 いつか再度「文学論」に再挑戦したいものである。
 そして「吾輩は猫である」以降の初期の噴出するように書かれた初期作品群がこの「文学論」を発射台にして一挙に打ち上げられたようだ。しかし軌道になるやいなや、航跡は明治期という歪みの多い日本の近代と個人の厳しい相克により、難渋を強いられる。作家生活はわずか10年で病に倒れる。
 多くの人が、私も含めて夏目漱石という精神を通過している。
 開場には現代の高校生がそれぞれに漱石の作品を簡潔にイラストもちりばめた紹介をハガキ大の用紙に記したものが展示されていた。なかなかいい感性をしていると展示品以上にじっくりと眺めた。いい試みである。私が漱石作品から受けた感想よりもずっと優れた視点ばかりであったと思う。このように読み継がれるものなのかと感心した。

   

 漱石は西洋の音楽については作品の中ではあまり言及はないようだ。しかし寺田寅彦につれられた音楽会には出かけたようだ。私の記憶の範囲では「三四郎」では美禰子はヴァイオリンを弾き、「野分」「吾輩は猫である」で西洋音楽に触れてあった程度だろうか。
 しかし「神奈川近代文学館#132の半藤末利子氏の文章では、漱石は長女にヴァイオリン、ピアノを習わせている。また長女をつれて演奏会に出かけている。しかし残念ながら絵画ほどには興味をそそられなかったと私には思える。
 たしか漱石は謡を披露したらしいが、周囲の人はそれを聴くのがとてもつらかったらしい、というエピソードを聞いたことがある。



 そして絵画については多くの評論を残しているし、ラファエル前派の影響は大きいし、酒井抱一なども好きだったようだ。だが、藝大での「漱石の美術世界」展で見た漱石の描く画は残念ながら私の関心は惹かなかった。ただ今回「あかざと黒猫図」ともう一点(題を失念した)の水墨画はなかなかいいと思った。

   



日本民芸館「朝鮮工芸の美」

2016年05月20日 11時48分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 展示は何の解説もない。民芸の美を体感するのにはぴったりかもしれない。訪れる人が少ないためか、本展示の図録は3000円。残念ながら購入は不可能であった。ただしショップは図書類は充実している。民芸関係の本は文庫でもなかなか店頭には並ばないので、手に取って内容を確認するにはこのような場にくるか、図書館にでも行かなくてはいけない。現在は図書館もあまり常備しているところはなくないようなので、専門家以外がこのような図書に接するにはとても貴重な場所だと思う。
 いくつかの器、特に李朝の白磁などが私の興味を惹いた。民芸品であるので、精緻で職人芸を駆使したようなものはないのだが、あのような美しい白磁を身の回り品として家のちょうどとして常備していたというのは、羨ましいような気になる。
 白磁の大きな壺がいくつか並んでいたが、歪な形のものも多く、釜の中で変形してしまったものを日常使いとして利用したのだろうが、日常使いに問題はなかったはずだ。かえって不思議な存在感がある。
 葡萄の葉と実をあしらった図案に栗鼠を描いた壺は、面白かった。
 硯や水滴など使い込んだ艶に生活の痕跡を感じることが出来る。




夏目漱石没後100年であった

2016年05月20日 09時38分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 迂闊であったが、神奈川近代文学館で「100年目に出会う夏目漱石」を開催していた。5月22日までなので、本日中に行かないといけない。
 漱石の「夢十夜」の中にある「百年、私の墓の傍に坐って待ってゐて下さい。屹度逢ひに来ますから」にちなんで「100年目に出会う」となったようだ。1916年12月9日が漱石の命日。本日14時からギャラリートークもあるとのこと。
 昨日二つの展覧会で700円+1100円かかったので、本日も700円というのはつらいが奮発しようと思う。
 夕方に整形外科に通ったのち、夜は学生時代の友人4人と九州の熊本・大分の地震のメカニズムについて知見を交換し合うことにしている。私はもうすっかり素人で基本的な知識が無いに等しいなので、他の3人に教えを乞う立場である。
 なお、神奈川近代文化区間では5月28日から「没没後30年 鮎川信夫と『荒地』展」も開催される。

原宿から駒場までウォーキング

2016年05月19日 22時04分48秒 | 山行・旅行・散策
   

 JR原宿駅の傍の太田記念美術館から、日本民芸館まで歩いた。過ごしやすい天気ではあったが、強い日差しのもと、歩きではかなりあった。起伏の多い道を原宿駅からNHKの横を通り抜け、戸栗美術館、松涛美術館、神泉駅、東大駒場駅を経由して日本民芸館まで、約3.5キロ程であろうか。アップダウンがあり、汗もそれなりにかいた。
 民芸館では各展示室にある椅子に座りながらじっくりと見学したため、二人共疲れて帰りは井の頭線で渋谷までもどり、東横線経由で横浜に戻った。
 私はそのままみなとみらい線で中華街のお店まで取材のために足を伸ばし、写真を撮影してから帰宅。
 結局家に着いてから歩数計をみたら2万6千歩になっていた。ウォーキングの歩き方よりはユックリであったが、それでもかなりの運動量となったと思う。腰の痛みはまだ出ていないので、この歩数を保持したり、あるいはウォーキングの要素を増やして夏の山行の準備としたいものである。



 なお、太田記念美術館のポストカードを見ていたら、小林清親の「猫と提灯」という作品があった。この猫はなかなかいい。しかもネズミの尻尾を捉えている。ひょっとしたら捉えそこなう寸前の様子かもしれない。いわゆる「可愛さ」を追求した犬・猫の作品は私はどうも好きになれない。かといって国芳流の猫も好みではない。これは動物に対する過度な愛情や思い入れをあまり感じない。描く対象に対する姿勢に近代的な眼を感じた。

 日本民芸館の「朝鮮工芸の美」は明日に記事をアップする予定。

太田記念美術館「歌川広重 東海道五十三次と冨士三十六景」

2016年05月19日 21時27分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 本日は原宿駅の傍にある太田記念美術館で「歌川広重-東海道五十三次と冨士三十六景」、並びに日本民芸館で「創設80周年特別展 朝鮮工芸の美」を見てきた。
 まずは太田記念美術館。この展示は前期と後期に分かれており、前期は5月26日まで。東海道五十三次(保永堂版)の日本橋からの半分、掛川宿までの二十七宿、並びに冨士三十六景の内18作品の作品を見ることが出来た。
 日本橋、品川、神奈川、戸塚、小田原、鞠子については構図が替えられた別の版も展示されていて、比較の面白さも味わえる。後期展示も楽しみである。
 冨士三十六景は北斎の富嶽三十六景と比較されるが、私は見るのは初めてである。北斎のように構図の大胆さと頂上が鋭角に強調された富士の姿、あるいは近景の面白さという強烈な印象は少ないが、それでも十分に構図の大胆さを堪能できる作品であることが分かった。



 武蔵小金井の冨士三十六景はその中でもかなり大胆な構図の一枚である。桜の名所だった小金井の野川(今はこんなに水量はない)と桜の木の洞から覗く冨士というのはもう少し強調すると北斎のような作品になるかもしれない。
 個人的な感覚では、私は国芳・国貞よりはライバル同士とは云え北斎・広重に惹かれる。

   


本日は源平盛衰記と広重東海道五十三次・富士三十六景

2016年05月19日 08時41分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は「平家物語のやさしい読み方(源平盛衰記の章・その5)」(講師:鈴木彰立教大学教授)全8回の内の第4回目。読みが深い講義で人気があり、受講者はいつもいっぱい。話も歯切れが良くて、聴きやすい。
 このような講義は私など素人にもよくわかり、参加するのが楽しい。

 午後は予定はないので、出かけることにした。妻のリクエストで広重の東海道五十三次と富士三十六景を見に太田記念美術館に行ってみることにした。少し遠出だが、私も楽しみな企画である。

鉄道事故が頻発した日

2016年05月18日 23時00分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は昼前に出かけて整形外科に通い、その足で横浜線の古淵まで出かけて、「井上雅之展-水鏡-」を見てきた。その後おにぎりを頬張りながら聴く名に出て、東横線-日比谷線経由で上野まで。
 高崎線のトラブルにともない東海道線・横須賀線・湘南新宿ラインが止まったり遅れたり。さらに人身事故で京浜東北線・山手線がストップ。東武東上線の脱線事故は特に私には影響はなかったものの、日比谷線経由という、安いが時間のかかる選択をした。そして上野駅の傍で「若冲展」の混雑の状況がツィッターで報告があり、結局上野駅構内から外に出ることなく、菊名駅に引き返した。しかも図録は3000円らしい。チケットを購入していても100分待ちというのも信じられない混雑である。

 そして帰る時は、菊名駅から自宅まで歩いた。少しずつ足を慣らすために遠出をしないと、夏の登山に支障をきたす。体重減と足腰の再度の訓練は夏山の最低限の準備である。本日の歩数は18000歩。腰の方には影響は出ていない模様。ホッとしている。

 明日は10時から講座がある。早目の就寝としたいものである。


井上雅之「水鏡」展

2016年05月18日 21時07分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日はお昼前に横浜線古淵駅傍の「ギャルリー ヴェルジェ」を訪れて、「井上雅之展-水鏡-」を見てきた。
 すでに5月5日(木)にもこのブログにアップさせてもらった展示である。
 本日は井上雅之氏はギャラリーには見えていなかったが、20分ほど今年の新作をじっくりと見てきた。
 これはまではオレンジ色に近い赤色や、赤味がかった紫色が中心の作品であったが、今回は緑ないし青の色を中心に黄色が効果的に配置された画面になっている。いくつかの習作を経て大きな作品に仕上げている。大きな作品は4点あったが、どういうわけか携帯のカメラで写したものには3点しか記録されておらず、ちょっと残念である。しかし私の一番のお気に入りは、「See Through 78.2016 MIZUKAGAMI」~「See Through 80.2016 MIZUKAGAMI」のうちの2点目である。
 どの作品も雁皮紙によるコラージュということで、アクリル板と雁皮紙を使っている。私の眼にも、実に丁寧に作っている。その丁寧なこだわりが私の好みに合致している。発色の具合をさまざまに工夫を凝らしながら微妙な色の効果などを追及しているようだ。
 そして色のバランスというか、色の配置や模様の持つ固有振動が私の気分にぴったりと寄り添ってくれる。
 今回の作品は青ないし緑を主体としているので、水鏡というシリーズの名称は作品とぴったりである。どこか静かな池にそっと波紋を描いて見せたような雰囲気が出ている。黄色に特徴的な点のような模様が何を象徴しているのか、しばし考えてみるのも面白い。私には光が水面に踊っている様にも見えるし、池の中から何かの小さな芽が出てきて、光を一手に集めている様子にも見える。昔から私は広大な宇宙に点在する銀河系の重力場を想像していたが、銀河系に現われる超新星爆発のような輝きにも見えてくる。
 展示は21日まで。

   

モーツアルト「ピアノソナタ#6、#16」

2016年05月18日 11時03分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 昨日とは違って気持ちの良い天気となった。久しぶりに特に用事もないのに7時台に起きた。朝の内に聴いていたCDは、昨日と同様内田光子の演奏の「モーツアルトピアノソナタ#6(K.284)、#16(K.570)、ロンド(K.485)」、1986年の録音。
 #6は1775年19歳の頃の作曲らしい。この曲には「デュルニッツ」という名がついているとのことだが、これはデュルニッツ男爵の依頼による作曲によりつけられたという。モーツアルト自身が好んで演奏した曲らしい。
 #16は1791年35歳最後の年の作曲。作曲後10か月後に亡くなっている。解説には「表面はただ可愛らしい感じがするが、その裏はモーツアルト最後期にしか無い清浄さに満たされている」と記されている。解説にもあるように第2楽章アダージョは心に残る。

 このCDのシリーズの嬉しいところは演奏者の内田光子の言葉が添えられているところである。
「バルトークは中部ヨーロッパの広原、ルーマニアの赤土の広野を心に浮かべるが、モーツアルとの音楽からは自然のイメージが浮かぶことは全くない」
「バルトークにあるごつごつとした岩の感触はモーツアルトには皆無である」
「岩の感触のあるのはベートーベンであるが、‥理想に変換したムラムラとした肉体の爆発に向かう力を感じる」
「ブルックナーになると天に昇るというよりもよりも神とのエクスタシーとしか呼べない世界が有る」
「ショパンのようにモーツアルトに近いアリアの歌心にあふれた人にもポーランドの熱情の裏には、怜悧で覚めきった頭を感じる」
「(モーツアルトには)頭の閃きはあっても覚めてはいない。神とも特に深い関係があったとも思えず、自然の匂いもしないとる」
「ただ心から心に語りかける音とでもいおうか。心とは何かなどと考えるのはやめにして、モーツアルとの音楽を心に響かせよう」
 いづれも内田光子氏の作曲家論とモーツアルト論になっている。演奏家の思いが伝わるのが嬉しい。




北斎「百物語 さらやしき」

2016年05月17日 21時30分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 2014年10月に私は当時上野の森美術館で開催していた「北斎展」で次のように記載してみた。

 もう一枚は、1832年の頃の「百物語 さらやしき」。百物語は当時はやった「怪談会」のことで、怪談をひとつ終わるごとに燈明を消していき、最後の明かりが消えるときに怪異現象が起こるといわれた。「さらやしき」は惨殺された下女のお菊が夜に井戸から現われ、皿を数えるという有名な話。
 このシリーズの妖怪、怨霊はどの絵もどこかおかしみを誘う絵であるが、これもこれから数えはじめるのか、途中で草臥れたのか、霊気を吐きながら上目遣いで一息入れているとしか思えないポーズである。しかもろくろ首のように首が長くお皿を首にかけている。
 若い頃はじめてこの絵を見て、私はキセルをふかして一息入れているろくろ首だと信じていた。遊び心満点の絵である。「怪談会」も北斎の手にかかるとこのように滑稽味も付加される。

 昨晩本箱にあるポストカードの収納帳を見ていたら、この作品が目についた。目についたというよりもこの女性の妖怪の顔に惹きつけられた。随分と現代的な顔をしているな、と思った。これまで「おばけ」としてしか見ていなかったのだが、極端だが垂れた目の黒目の部分の描き方、鼻から唇、顎にかけての描写が現代的な感じでないだろうか。浮世絵の女性像からはとても想像できない横顔の女性像が妙に生々しい。額の張り出しは現代人とは違うが、顔の眼より下はとても現代的ではないだろうか。

         

 例えば2015年8月に芸大美術館で開催された「うらめしや~」展での出品された女性の妖怪・幽霊図などの作品などには見られない像である。西洋画の影響を指摘するだけでは何か足りない。その時には明治以降の妖怪図も掲出されていたが、それらは江戸末期の妖怪図の範疇を超えない作品に思えていた。
 有名な「伝円山応挙 18世紀 幽霊図」、「鰭崎英明 1906 蚊帳の前の幽霊」、「上村松園 1918 焰」などとはまったく違う女性像である。
 私も含めて多くの人は、幕末から明治初頭の日本での写真を見て、「日本人の顔はずいぶんと変わった」と感じている。男女ともやせ形からふくよかになった以上に骨格も、目の表情も違いがある。ということはこの北斎の女性像は、描き方が西洋画の方法を取り入れただけでなく、当時の女性とは違う北斎の頭の中にある特別な女性像ということになるのかもしれない。誰がモデルだったのかは私などにはわからないが、当時の女性の化粧などを落とすと女性の顔はそれほど変化はない、ということなのだろうか。
 いくら想像してもわからないのだが、この絵を見て当時描かれた女性像とかなり違うことと、現代の日本の女性像からは遠くないということだけは強く感じた。