Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

カラスの声がうるさい日

2017年11月26日 14時08分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中は団地の管理組合の会議。お昼から何日かぶりの読書。「怖い絵-死と乙女篇」(中野京子、角川文庫)を少々。忙しさに紛れて、あまり読書が進まない。時折読むということを繰り返すときは、長いものは前の部分を忘れてしまうので、つい短いものばかりを読んでしまう。
 今年の読書のペースが歳の後半になって落ちてきた。結構ストレスになっていると思う。自分のペースで、自分の好きなものがなかなか読み切れない。あまりいらいらしてもよくないので、ゆったりした時間を早く取り戻したいものである。
 目をとおしたのは、ミケランジェロ「聖家族」、セガンティーニ「悪しき母たち」、伝レーニ「ベアトリーチェ・チェンチ」、ルーベンス「メドゥーサの首」の4編のみだが、それなりに充実した時間である。

 これからウォーキングがてら遠出をしたいが、風が強い。取り立てて冷たい風ではないが、風の舞う音が続いている。カラスの鳴き声が妙に耳に煩い。
 こういう場合は気分的には、歩きなれた横浜駅までの往復位に落ち着いてしまいそう。


カラオケを聞くこと

2017年11月25日 22時01分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日のブログの「葱と刃」に《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》(1620年頃の作、アルテミジア・ジェンティレスキ、ウフィツィ美術館)を貼り付けてみた。俳句とは直接関係はない絵画だが、私の文章の下敷きなので敢えて加えた。
 さらに「葦原の山姥」様に指摘をいただいた「寝首を描く」2か所を「寝首を掻く」にあらためた。いつものように変換ミス、情けないものがある。

 人前でとても歌えないし、カラオケという場面には近寄らないことにしている。やむなく取材に行くときは、「あくまでも写真を撮るだけ」強く断って、マイクがまわってくることの内容にしている。
 しかし本当は人の唄っているのを聞くのは嫌いではない。ひょっとしたら好きなほうかもしれない。親しくしている友人が選曲する曲を見ると、その友人の経てきた人生が垣間見えるときがある。そんなときはじっと聴いている。囃し立てることはしないが、拍手もおおいにする。
 逆にしっとりとした曲を選んで歌っている人の歌を聞くと、その人の人生をいろいろ想像したくなる。退職者会のカラオケだから、あまり新しい歌はかからない。忘れていたような曲がかかるととても懐かしくなることもある。
 カラオケでは、というよりもどんな場面でも、ひたすらはしゃぐ人とはあまりお近づきにはならないようにしている。
 人はカラオケに行って、親しくなる、というが、私はごくごく親しい人の誘いで、かつ私に歌うことを強要しないと確信できる敵以外、カラオケに行くことはない。


本日もおおいなる疲労感

2017年11月25日 20時01分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 カラオケ会場を早めにお暇しようとして、引き留められるまま、いつの間にか最後までお付き合いをしてしまった。
 19時近くになってようやく帰宅。軽く夕食を食べて、本日はそろそろ就寝したいきぶんである。歩いて還ってきたので、酔いはそれほどではないが、やはり疲れた。
 結局本日も読書などはまったくできず、少々イライラが

みかん狩りとカラオケ

2017年11月25日 15時54分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
午前中は横浜市内の観光農園でみかん狩りのイベントホール、午後からは組合の会館でカラオケの交流会。
私はカラオケなど歌謡はお断りしているので、あくまでも取材のみ。
これより帰宅準備。

葱と刃

2017年11月24日 22時17分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日は思いもかけず、大根でオロオロした。まだわからない句がひかかる。本日は大根ではなく、「葱(ねぎ)」の句。

★悲しみの刻は女は葱きざむ     小谷伸子
★刃渡りをそっと確かめ葱刻む    瀬戸優理子


 今、上野の森美術館で「怖い絵」展が開催されている。が上の二句もまたとても怖い。特に第2句目など、女性に家事を押し付け、のほほんとしてとしているのが当たり前と思っていたら、それこそ寝首を掻かれる。

《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》(1620年頃の作、アルテミジア・ジェンティレスキ、ウフィツィ美術館)


 旧約聖書外典に記された物語で、アッシリアのホロフェルネスに包囲され降伏寸前に夫に死別していたユディットという女性が包囲軍に乗り込み、自らホロフェルネスを誘惑し、酔いつぶれた彼の首を剣で切断して包囲された町に持ち帰る。指揮官を失った包囲軍は撤退し、ユディットは称賛される。外で如何に武勇を誇ろうが、サラリーマンとして功績があろうが、女性の誘惑に弱いという、男社会の論理を振りかざす男は、必ず復讐される。かく記す私とて、いつ寝首を掻かれ、捨て去られるか、知れたものではない。
 第一句、私はこれは女に特有なことと断じてしまう男はついには女性の気持ちを理解できないし、同時に基本的に社会で仕事ができない人間でしかないと思う。何かの壁にぶつかり、どうしていいかわからないとき、人はただひたすら何かに打ち込もうとする。何かの代償行為のように。別に回避し、逃げ込むというのではない。自分と向き合い、そうして出口や脱出の方途を探すように黙々と何かを為し続けなければ、自分の身がもたない、というところに追い込まれた自分。このような状況をいくつか引き受けることで人は再生し、次へと歩み始めることができる。
 専業主婦であっても、家族内でひとりだけでは解決できないさまざまなことが日々生起する。真摯に向き合おうとすればするほど、自分を追い込んでしまうもこともある。葱をひたすら刻むことで、この女性は再生の過程を歩んでいるのであろう。「気分転換、そのうちケロッとして戻って来るさ」、などと言っている男は必ず復讐されるのである。
 第二句、葱を刻む行為が度重なると、刻む包丁に意識が向いていく。ここまでくるともはや危険信号。もっとも二つの俳句そのものは、関連はないので、あまり深く考えなくてもいい。しかし刃の反りなどを凝視し、指で刃の状態を探るようになると、尋常ではない世界と背中合わせである。

三日月に照らされながらウォーキング

2017年11月24日 20時08分37秒 | 山行・旅行・散策
 本日の組合の会館での作業が終了したのが、13時過ぎ。喫茶店で昼食を摂りながらボーっとしているうちに1時間ほど睡眠。その後喫茶店を変えて1時間ほどの読書タイム。といっても本ではなく、退職者会の関係資料ばかりなのであまり楽しみは無かった。
 石川町駅から横浜駅経由で家まで久しぶりに歩いて帰った。横浜駅からは通常よりもさらに遠回りをしてみた。途中から三日月に見守られるようにして歩いた。

 本日はこれから運慶展の図録を見ながら、頭の整理をしたい。

知恵の出どころ

2017年11月24日 12時58分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中の作業終了。久しぶりの肉体労働(^O^)。ビジネス用のdesk一つをエレベーターは使ったが、ひとりで階下と階上で入れ替え。段ボールを下に敷いたり、台車を使ったり、いづれも一長一短で複数を組み合わせてようやく何とかした。
 ひとりでするといろいろ工夫する。その楽しみがある。
 そういえばまだ二十代のころ、現業の先輩に言われた。大勢でやれば、重機を使えばすぐに出きるが、工夫するということを忘れてしまうと。機械を入れるだけが前向きではないこと、基本的な構えというものの大切さを教えてもらったと思う。
 なるほどと、いま頃そんなアドバイスを思い出し、いまさらながら感心した。

本日の予定はほぼ終了

2017年11月23日 23時31分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日予定していた退職者会のホームページの記事三つをアップするつもりでいた。二つは出来た。あと一応二つほどアップできる見通しとなった。。
 のこり三つほどのチラシをアップする必要が出来たが、これは明日以降の仕事として、本日は日付の変わる前に就寝したい。

 明日は昼前に組合の会館で若干の作業予定。午後までかかることはないと思われる。そして午後の予定はまだない。どこか喫茶店で読書タイムとするか、早めに家に戻り運慶展の感想の準備をするか、気分次第といったところ。


大根葉が美味しい

2017年11月23日 20時55分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昼前には上がった雨で、太陽が顔を出していた。昼食後に買い物に付き合って外に出たときはポカポカとしていた。しかし買い物を終えて15時過ぎに店を出たときには厚い雲が再び空を覆い、今にも降り出しそうになっていた。
 19時ごろにいったん降り始めたが今は雨が上がっている。レインアイよこはまを見る限りこれからまだ降る可能性が高い。雨の区域が神奈川県の西部から少しずつ東の横浜・川崎方面に移動している。寒さも戻ってきている。
 本日はスーパーで葉がたくさんついた若い大根を見つけた。久しぶりに大根葉を細かく切って、シラス干とともに炒めておかずにした。若い葉なのでとても美味しくたべた。満足。

 なんでも、「西日本では10月(新暦では11月下旬だろうか)に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができるといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬ」という言い伝えがあるらしい。大根と死という組み合わせがあるようだ。たぶんこの収穫直前の大根、あるいは収穫した大根は丁寧に扱わないと裂けるなどして商品価値が失われやすいことを表現したものかとも思う。だが、大根畑で大根を抜いた後の穴の連続は、ひょっとしたら不気味なのかもしれない。

★死の使ひ大根畑抜けゆけり    加倉井秋を

 この句にはこんないわれが背後にあるのだろうか。しかし無事に収穫した後の畑の穴や、せっかくの美味しくみずみずしい大根が死のイメージをともなっているというのはどうも合点がいかない。この「死の使ひ」とは何なのだろう。
 首を傾げたまま、これ以上の追及は本日は諦めることにした。

寒さを呼び込む雨

2017年11月23日 10時29分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝から冷たい雨。ときどき時間雨量30ミリの区域が南から帯状に北上してくる。雨の区域は少しずつ東へも移動している。ただし風は北風。雨の区域とは正反対の風である。北からの冷たい空気が押し寄せているのだろうか。
 大雨・強風・雷注意報が出ている。

 寒さを呼び込んでいるような雨である。まだ寒の入りまでには一か月半もあるが、こんな句が似つかわしいような雨である。

★足もとの草に音して寒の雨    柴崎七重

 さて本日は休養日。といっても、何かといってはついパソコンの前に座ってしまう。退職者会のホームページに記事を三つつほど掲載することと、長野のバス旅行の写真の整理等をボチボチと‥。

さすがに草臥れた

2017年11月22日 22時43分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 30分ほど前に家に到着。列車の遅延情報によると私の乗った上野東京ラインは、横須賀線の保土ヶ谷駅での人身事故の影響でかなり遅れが出ているらしい。横須賀線・湘南新宿ラインは運転見合わせということにもなり、並行している京浜東北線も混雑で遅れたらしい。どうも私の乗っていた電車の後の列車から影響が出たようだ。私が横浜に着くのが大幅に遅れたかも知れない。幸運だったようだ。

 横浜駅からは小雨だったので少しだけ遠回りして歩いて帰ってきた。小さな折り畳み傘だったため、かなり濡れてしまった。

 本日はさすがにくたびれた。「無言館」をバス旅行で訪れたときの自前のリーフレットをつくるのに利用した関係資料を図書館に返しに行き、空振りに終わったが運慶展のチケットを探しいに4件のチケットショップをまわり、先月の葬儀の盛花代の分担の振込みを確認するために銀行と郵便局をまわり、午後一番で本郷台駅まで講座を聞きに行き、終了後運慶展。東京国立博物館のチケット売り場についた時はくたびれ果てていた。
 せっかくすんなり入場できたので、混雑する作品の前で、気力を奮い立たせて人垣の間から眼を凝らして全作品を見て回った。会場を出たときは緊張していたらしく、入口にたどり着いた時以上にどっと疲れが出た。
 上野で各種展覧会を見た後必ずよる居酒屋についてから、ビールを飲んでいるうちに10分ほど寝落ちしていたらしい。ツマミを運んでくれた店員の声でわれに返ったが、ジョッキのビールの泡が消えていた。
 食事後、上野東京ラインの乗って座った途端に寝てしまい、目がされたら横浜駅であった。上野から横浜までの記憶がまったくない。
展覧会の記憶のほかに上野公園で印象に残ったのが、上野の森美術館の長蛇の列。居酒屋に入る直前の19時過ぎであったが、幾重にも道路に並んでいて、「今から並んでも会場内には閉館間際にしか入場できない」と係員がマイクで伝えていたけれども、列を離れる人はいなかったように見えた。12月17日までの会期にも関わらず、これだけの混雑では遠慮した方が良いようだ。
 
 20日も朝から夕方まで会議が続き、建物の中を資料の印刷等で駆けずり回り、体力的にも疲労困憊。本日も同様、ということで明日は雨を理由に休養日としないと体が持たない。明日は横浜市の西部を流れる和泉川の散策とバーベキューの予定であったかが、雨の予想で延期。助かった。

上野駅傍で一服中

2017年11月22日 19時02分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
運慶展を見終わった。平成館いっぱいの展示に圧倒された。チケットショップでは券を購入できず、不安だったが、チケットはすぐに購入できた。
しかし、展示室は二重、三重の人だかりで作品を下から見上げることはほぼ出来ず、足元をじっくり見ることもかなわなかった。
実際に目の当たりにする時間はある種、至福の時間かもしれない。
今回特にこだわって見たのは、足下の鬼の表情、両足の膝、体の厚み、手首から先。
収穫はあった、と思う。

本日、運慶展に挑戦

2017年11月22日 10時27分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の予定は、市立図書館-古代史講座-東京国立博物館での運慶展と欲張ってみた。夕方からは雨の予想だが、昨日までの寒さではない。傘は必携である。
 問題は運慶展の混雑具合。何しろ人混みというのが大の苦手。出来るだけ近寄りたくない。現役時代はほとんど気にしていなかったが、退職後だんだん強く意識してしまうようになった。偏屈オヤジまっしぐらである。でも展覧会はどうしても見たい。
 横浜駅周辺のチケットショップで券を手に入れられるととてもありがたい。チケットを購入するために並ぶことだけでも避けられるならば、元の値段と同じでも構わないとすら思う。


「冬来ては案山子のとまる鴉かな」(其角)

2017年11月21日 22時49分29秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「秋の収穫も終わって木枯らしの吹きすさぶなか、お役御免となった案山子に、さも馬鹿にしたようにカラスがとまっている。その案山子が長いこと風雨につけられ、どことなく老骨役立たずのわれに似ているようで、大そう気に入っている」(半藤一利)
 半藤一利の「其角と楽しむ江戸俳句」によると、幸田露伴は「鴉を嚇すべき案山子を持ち出してそれを破れ笠の上に傲然と鴉をとまらせたるは、其角の独特のところなるべし」と指摘しているとのこと。これを受けて半藤一利は「哀れな案山子だけに視線がいっていて、とまった鴉メが傲然とあたりの枯田を睥睨している図には思い至らなかった」と記している。

 確かに其角は一筋縄ではいかないようだ。

「敗戦日記」(高見順)をつらつらと‥

2017年11月21日 19時57分54秒 | 読書
 最近は力のあるものに擦り寄ることに何の後ろめたさを感じない風潮が続く。「寄らば大樹の陰」は、マイナスイメージから肯定的なイメージに転換してしまったようだ。独立自尊の風潮がますます後退していくことを嘆く「ものしり顔」の識者も多いが、擦り寄ることへの批判もまた、どこかでなれ合いの様相もあり、「識者」もまたにわかには信じられない。がヘタに人を信用するとするっと身をかわされて逃げられてしまう。そして騙された人間が悪いような嘲笑が観客席から湧き上がる。
 批判される人にも、批判する人にも安易に組しない方がいいとなってしまうと、これはもう沈黙したまま黙って舞台を眺めているしかなくなる。それではまたつまらない。しかしつまらないということすら発言するのが憚れる世の中になりつつあるとまで言われている。

 10月24日に買った「敗戦日記」(高見順)はベッドの脇に置いてある。この間ベッドの中で読書をする心のゆとりがまったくなくなっていた。翌々日に友人の高木純さんの訃報を聞き、それ以来あまりに慌ただしい一カ月が過ぎた。
 本日実に4週間ぶりに手に取ってみた。1945(昭和20)年1月1日から始まるこの「敗戦日記」、ようやく1月31日まで読み終わった。
 1月15日の項に、こんな文章がある。

 「田舎に徴用官の相談役のようなのがいて、それが鬼の如くにおそれられているとのこ。昔の悪代官の手下みたいに、ちょっとでもその男から睨まれると、たちまち徴用をかけられる。農業の方は徴用がかからないはずだのに、なんとかかんとかいって、ひっぱって行く。そして一方、徴用をかけるぞと嚇して至福を肥やしている。かけられると聞かされた方は、その男にわいろを持って行くのだ。わいろが好きないとさらに嚇かす。尾崎士郎も、疎開していて、おなじような話をした。民間のものがこの頃権力を持たされるようになったが、するとこれは管理よりもひどい官吏風を吹かせる。もとは憤慨していた官尊民卑を逆に発揮する。困ったものだという。民が官につくと、かように悪質になるのは、もとよりその人間にもよるだろうが、それだけ長い間、官尊民卑に民が苦しめられていたせいだとも言える。」

 どこか魯迅の文章なり発言を彷彿とさせる文章である、と感じた。魯迅が格闘した1920年代、30年代の中国の苦悩と、二重写しに見える。敗戦から70年、日本人は何も進歩していないということになる。確かにそのような側面もある。魯迅風に言い換えれば、「人間とはもともとそんなものさ、という諦観を持つほどには絶望などしない。希望を捨てていない」という言い回しになるのだろうか。
 ただし「官尊民卑」というだけの構造で分析が終わってしまっていることにはおおいに不満である。官対民という単純な図式化で世の中を裁断する風潮は不毛である。官を批判すれば、官をたたけばそれで済むのではない。「政治」が「官」を超えられないこと、が問題なのである。
 戦前、政と官の腐敗が進み、その政治不信の隙間を縫うようにして軍部の独奏が始まった。現在の政治不信、政治家への忖度という官の退廃を縫って、「官」がよって立つべき「公」をたたいて快哉を叫ぶ「政治屋」が喝采を浴びてはいないか。
 社会把握・政治批判の頼りなさには目をつむり、高見順という作家の日記には、私もまだ知らない戦争中のエピソードも多く語られていることに注目して読み進めてみたい。