Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「戦後」という年号

2023年08月15日 21時13分39秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 以前にもこのブログに掲載したことのあることを再度記載してみたい。当時の文書ではなく、本日思い出しながら再度記載してみる。

 私は昭和26年生まれである。西暦では1951年。まだまだ戦争の影をひきづっていた頃である。物心ついた時には年号というのは当然意識することは無かったが、「昭和26年生まれ」、「戦後6年目の誕生」というのは区別なく使用していた。どちらかというと、前者は畏まった言いかた、後者は隣近所の人々との会話の中で使っていた言いかたのような気がする。
 「昭和〇〇年」は公式、「戦後△△年」というのは日常使用、こんな区別でもあったのだろうか。また函館から東京の親族のところに1959年小学校2年生の夏休みに遊びに行って、前年の年末に出来た東京タワーに連れて行ってもらったことがある。そのときに「戦後13年の日本のシンボル」などという言葉を案内の女性が発したのを覚えていて、夏休みの宿題の日誌に書いたと思う。
 この「戦後」という年号は、1970年、昭和45年、戦後25年までは常に使われていたと思う。「三年号併存期間」と私は勝手に決めている。人々の間では頭の中で「戦後〇〇年」に換算して使用していたように思う。それほどあの1945年・昭和20年が、それまでの死と隣り合わせの破壊と恐怖の意識と、それ以降の混乱と回復の時期の境界として強く意識されていたはずだ。
 中・高校時代も併用が当たり前だった。大学入学は1970年・昭和45年であったが、住民票の手続きに市役所に行くと「戦後25年の仙台」というような横断幕があったと記憶している。学籍番号も「45S-〇〇〇」だった記憶がある。Sは理学部。
 年号表記については学生運動も無自覚で「45前期自治会」などという表記をビラや立て看に使用していた。卒業までの5年の間に「戦後」という文言は少なくなったが、意識が希薄になったとは思えない。少なくとも「戦後文学」は私どもの一つの思想の拠り所でもあった。
 「もはや戦後ではない」というのは、1956年・昭和31年の「経済白書」のキャッチフレーズだが、これは朝鮮特需が終わり、復興景気も期待できない、という悲観的な意味で使われていたという。戦後の新しい経済の出発を待ち望むという気分を作りたかったのかもしれない。それが高度成長を予想し、独り歩きして反対の意味になったという。
 1970年代後半になってようやく「戦後」という意識が薄れかけ、それに政治家が乗じた。中でも中曽根康弘元総理大臣の「戦後政治の総決算」という言葉で「戦後」という意識は葬られたように見える。国会議員の意識からも意図的に消えたようだ。「戦後」という価値体系が余ほどお気に召さなかったのだろう。
 しかし時間の尺度というものは、政治家や官僚がコントロールしようとしても、人々の意識は変えられない。それを「使ってはいけない」と強制することはできない。「戦後〇年」という意識は私はとても大切な時間の尺度であったし、それを少なくとも30年以上も使い続けた人々の意識は大切だと思う。
 1945年・昭和20年という起点以前と起点以降は断絶がある、という意識は戦後に培われた価値というものが、戦前よりも優れていたことのほうが多いということの証しでもある。「戦後」という言葉を葬り去りたい人々がいる限り、私はこだわってみたい、と中曽根元総理大臣が影響力を持っていた時期、こだわって「戦後〇〇年」という言い方をしたことがある。それこそ「古い人間とお思いでしょうが・・・」と開き直ってみたかった。

 「戦後78年」、今一度「戦後」にこだわってみたい。


鳥取県に「大雨特別警報」

2023年08月15日 19時19分14秒 | 天気と自然災害

 気象庁は16時40分、鳥取県東部に「大雨特別警報」を発表した。被害が発生しないで欲しいものである。静岡県でも竜巻が発生したとのニュースも流れている。

 気象庁の発表は以下のとおり。

鳥取県の市町村に大雨特別警報を発表しました。これまでに経験したことのないような大雨となっています。
特に土砂災害警戒区域や浸水想定区域などでは、何らかの災害がすでに発生している可能性が極めて高く、警戒レベル5に相当します。命の危険が迫っているため直ちに身の安全を確保しなければならない状況です。
※指定された避難場所への避難がかえって危険な場合には、少しでも崖や沢から離れた建物や、少しでも浸水しにくい高い場所に移動するなど、身の安全を確保する必要があります。
また、普段災害が起きないと思われているような場所でも最大級の警戒が必要です。
今後、他の市町村にも大雨特別警報を発表する可能性があります。特別警報が発表されてから避難するのでは手遅れとなります。自分の命、大切な人の命を守るため、特別警報の発表を待つことなく、地元市町村からすでに発令されている避難情報に直ちに従い身の安全を確保してください。
地元気象台等が発表する地域に応じた詳細な情報を確認するとともに、今いる場所の災害発生の危険度を気象庁HP等の「キキクル(危険度分布)」で確認してください。
 


8月15日

2023年08月15日 14時21分39秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 横浜市域では、深夜1時ころには強い雨の区域が通過し、大雨警報・洪水注意報も出たが、2時過ぎには止んでくれた。現在は太陽が顔を出している。ただし大雨・雷・強風・波浪注意報が出ている。
 近畿・中国は風・雨ともに強くなっているようだ。鳥取県では竜巻の発生というニュースも流れている。

 本日は8月15日、終戦記念日という言葉が世の中に溢れているが、私は昔からどうしても敗戦記念の日と言ってしまう。いつごろからだったか記憶にないくらい小さい時からである。私が小学校の低学年の頃は「敗戦の日」「無条件降伏を受け入れた日」と人々が口にしていた記憶がある。ただし当時のマスコミや政府がどういう表現をしていたかは記憶にない。気がついたら私の周囲でもいつの間にか「終戦記念日」になっていた。

 その後の私の理解では、8月15日は「玉音放送」により「ポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日」である。ちなみに9月2日は日本政府がポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書に調印した日である。さらに1952年4月28日が国際法上、連合国各国(当時のソビエト連邦などを除く)と日本の戦争状態が終結した日となる。

 当時の国内政治がいかに混迷していたか、8月15日の評価にも反映している。そしてさらに複雑な国際情勢を反映して、わかりにくい戦後処理のスタートでもあった。
 同時に一番大切なことは、1945年8月15日の「玉音放送」までの旧大日本帝国と、戦後日本国憲法により定まった日本国は、政治的には「断絶」しているという理解が、政権与党だけでなく、ほとんどの政治家がこのことに無自覚、疑問にすら思わない。あるいは知ろうともしない。これが今の政治の混迷の元にもなっている、と私は理解している。

 


台風来る

2023年08月14日 22時11分29秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 台風7号が近畿地方を窺っている。なかなか強い勢力である。台風6号に振り回されて、また7号と連続である。高度にシステム化している鉄道や航空、物流、コンビニ、そして病院などの業界程対応に大わらわである。むろん行政の第一線の苦労も経験者であった私にはよく理解できる。
 そんな中、台風を題材にした、今の人からはは少々古い時代の俳句を取り上げてみた。恐怖とどこかワクワクと高揚した気分と、めったにない事態にドキドキした私の小さいころの気分が垣間見える。

★煙突は立つほかなくて台風が来ている  きむらけんじ
★颱風の心支ふべき灯を点ず       加藤楸邨
★颱風が押すわが列島ミシン踏む     小川双々子

 第1句、自由律俳句であるが、緊張感がある俳句である。自由律と言っても作者独自の体内リズムに沿った「自由律」である。体内リズムと言葉の流れとの緊張感がなければたんなる「口語・話し言葉」俳句で締まりのない句になってしまう。
 不思議なもので、下の句を5・7・5にのっとって「台風来」とすると、これまた締まりのない俳句だと思う。
 さて、1960年代半ばまで私の住んでいた家の近くには必ず銭湯の高い煙突が聳えていた。近くに町工場があればそこにも煙突は必ずあった。むろん各家庭にも、暖房用の煙突だけでなく便所には臭気を逃すための排気筒もあった。
 今思えば、危なっかしいものであった。台風などで大きな煙突が倒れる事故も時々あった上に、家庭の煙突は強い風などがくればぐらついていた。かといって畳むわけには行かない。煙突は「立っているほかない」のである。それが宿命のように、小さな工場あるいは小さな木造の家の「生きているぞ」という意地を示すように。
 ある意味では戦後の経済成長を支える証しのような煙突も、とうとう1970年代には邪魔者扱いのように周囲からは消えていった。そして湾岸部のコンビナートに集約された。それが公害の象徴にもなってしまった。都市の住民は、住宅街や町工場から煙突を湾岸部まで追いやった仕返しをされていたともいえる。

 第2句、この句はもう幾度も取り上げた。私には函館と川崎で2度か3度ほど夜に蝋燭の火をともして、一家3人台所で緊張していたことがある。台風の雨・風の音がことさら怖く感じたものである。停電になった瞬間の心細さ、そして親が点けた蝋燭の火。弱く、揺れる火ながら不思議な安堵感がもたらされるものであった。
 仙台の学生時代には、台風ではなかったがアパートが停電となり、料理用の植物油を小皿に入れ、トイレットペーパーで芯を作り、火をともした時に、小学生の頃の心細さを思い出した。

 第3句、これも戦後すぐの句だと思う。台風の強烈な風に家が軋む。それを列島が押されると表現したものと思う。なかなかいい表現である。その不安をかき消すように内職か、家族の服の繕いものをするのであろう。子どもにとってもこのミシンの音は頼もしい音だったかもしれない。「台風が押す列島」という大仰な表現が空回りせず、しっくりとおさまったように思える。

 


忘れる特技

2023年08月14日 18時41分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

  明け方3時過ぎから30分ほど強い雨が降った。その雨がやんでから大雨警報等が着信。2時間後に解除になったが、それほどの強い雨であった。大雨・雷・波浪注意報は継続。
 さらに昼前には洪水注意報も加わった。しかし今のところ雨は降らずに推移している。なかなか予報が難しいようである。
 台風7号の進路は大阪に向かっているということで統一されている。高校野球も1日順延とのこと。

 雨が上がっているので、親に頼まれたいくつかの買い物と、クーラーのカタログを貰いに横浜駅まで出向いた。17年使ったクーラーは今年の夏が終るまでは何とか役に立ってもらいたいと願っている。秋になって値が下がることを期待して買い替えたい。費用はかかるが、致し方ない。

 頼まれた買い物はすべて購入したのだが、メモに書き忘れたものを購入するのを忘れた。頼まれたものではなく、私だけが使う洗口液。
 「紙にメモをしないで買い物に出て忘れないのは3品まで」と妻に笑われている。それ以上はメモを書かかないと必ず何か忘れる。さらに5品以下の場合、緊張感が足りないのか、ときどきメモを見ることすら忘れてしまう。帰りのバスの中で思い出してがっかりする。その時の自己嫌悪は強烈である。
 しかし、不思議なことにスマホのメモ機能に登録した場合はちゃんと見る習性が出来ている。紙と鉛筆というものがどんどん意識の外から抜け落ちていく。
 そのために書き写しを始めたが、現在休止中。文庫本ではなく、活字の大きい本を探しているが、時間がかかりそう。文庫本でも必要な時に拡大鏡を利用して再開したほうが良いようだ。漢字を思い出すだけでなく、紙に字を書いて記憶するということ、紙に書いたものを見るということ、を忘れないようにしたいものである。

 行き、帰りともバスに乗ったが、道路はガラガラだった。地下街はいつもの月曜日と変らぬ人出。だがよく見ると、買い物客ではなく、旅行途中らしい人が大勢歩いていた。

 


蝉の声

2023年08月13日 20時30分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 先日アブラゼミが2匹階段室に迷い込み、翌日死んでいた。以降は階段室には飛び込んで来てはいない。しかし他の階段室にはずいぶんと飛び込んでいる。本日は雨模様に関わらず、蝉の声は激しい。
 最近は家にいる時間が長いためだろうか、蝉の声がうるさく感じるときが多々ある。昔は職場の周りでも盛んに蝉の声は聞こえていたが、仕事に紛れてうるさく感じたことはあまりなかったと思う。
 あるいは仕事に紛れるということとは無関係に、歳をとると蝉の声がうるさく感じるような聴覚の変化があるのだろうか。そんなことがふと気になってしまう。

★夜の蝉人の世どこかくひちがふ     成瀬櫻桃子
★油蝉死せり夕日へ両手つき       岡本 眸
★蝉しぐれ防空壕は濡れてゐた      吉田汀史

 第1句、どこか食い違うのは、夜の蝉の声が原因ではない。しかし時々蝉の激しい合唱が自然の秩序を越えて、どこか狂気のように聞こえてしまうことがあるのではないか。しかもそれが夜の蝉の合唱となるとなおさらである。社会に在って人や社会との疎外感が膨れ上がり、それが昂じて病の領域に突き進んでしまうこともある。そんな自分の危うい現状と蝉の合唱が重なってしまう瞬間を意識したことは無いだろうか。私にはとても切実に思えた句である。
 第2句、先日の我が家の家の前の階段室に迷い込んで死んでしまった蝉、ひょっとしたらこのように夕日に向かって生涯を終えたかったのかもしれない。油蝉と表記されるだけに暑い夏の日に絞り出すように鳴く声が、夕日にこだましている。
 第3句、私は防空壕で身を潜めて空襲をやり過ごした体験はない。しかし私は小学生の頃、防空壕の跡をずいぶん見た。いづれも入り口が木の柵でふさがれていたが、柵は腐り、草に覆われ湿気ていて、覗くと草や木の腐った臭いがした。こんなところでどうやって長時間潜むことが出来たのか、幼いながら不思議に思ったものである。多分作者は生涯この湿気の多い濡れた防空壕の体験を五感をもって覚えているだろうと思う。作者は蝉しぐれの夏の慰霊の時に思い出すのであろうか。体に染みついた感覚を忘れ去ることはできないはずだ。
 


台風7号の雨

2023年08月13日 18時24分13秒 | 天気と自然災害

 昨晩は久しぶりに途中で起きることもなく熟睡した。クーラーの風をどのように寝室に誘導するか、いろいろと悩んでいた。寝る直前の措置として、台所やパソコンルールに冷気が行かないようにカーテンなどを工夫し、リビングルームの冷気が効率よく寝室に行くようにサーキュレーターと扇風機の位置などを工夫した成果である。当面はこれで十分であろう。

 さらに午前中からのパソコン作業で、目が疲れたので、ベッドでひと休みしようとしたら、1時間半も寝てしまった。本日は13時半ころの32.8℃まで上昇したが、17時にはすでに30℃を下回っている。湿度はとても高いがそれでも35℃前後とは雲泥の差。体が喜んでいるように思える。体が疲れていた証左かもしれない。

 さて午後になって強い雨の区域が通過したのは、横浜市域の北半分と南端であった。雨の区域は東南東から西北西に流れている。さいわいにも我が家の付近は時間雨量換算で10ミリ程度の強さの雨であった。しかし房総半島にはまだ強い雨の区域がある。台風を取り巻いている雨の区域の一部なので続いて押し寄せてくるはずである。

 台風7号の予想進路は気象庁の予想進路は神戸の上空を通過するように描かれているが、他の予想進路では再び少し東に寄り、三重県の山沿いを通過するようにも見える。いまだ進路は微妙で確定してしまうことはできないようだ。予想進路が外れて被害が拡大してはとりかえがつかない。


雨の区域が近づいてきた

2023年08月13日 14時35分21秒 | 天気と自然災害

 朝弱い雨が降っていた。その後は曇り空。しかし次第に暗くなってきた。レインアイよこはまを見ると横浜市域に東から強い雨の区域が寄ってきている。しかし不思議なことに今のところ市域の外周から外側は雨の区域に覆われているが、内側は一部をのぞいて雨の表示はない。
 三浦半島や県央区域は強い雨となっている。間もなく雨の区域は横浜市域も覆ってきそうである。外出は控えたほうが良いようだ。

 朝から退職者会ニュース9月号の枠を作成、記事をひとつ作り上げた。本日の編集作業はここまで。


台風の影響は明日以降

2023年08月12日 21時40分14秒 | 天気と自然災害

 メヌケの粕漬けを購入して焼いてもらい、私にとっては充実した夕食になった。

 さて迷走した台風第6号に続いて第7号も迷走気味。当初は名古屋や東海地方を直撃かと報道されたが、紀伊半島から近畿を縦断するらしい。ようは台風第6号の後を追って行くということになる。第6号の通過した後に太平洋高気圧が東に移動せずに、西張り出したままというのが原因なのだろうか。そのメカニズムはわからないが・・・。
 明日は曇り時々雨の予報。台風の影響が出るようだ。我が家では食料の買い置きは整っているが、飲料水は少々心もとない。台風の進路が西にずれるようなので、明日の様子を見て、飲料水の用意が必要か考えたい。
 明日の雨は降ってもそれほどの降水量ではない、という予報になっている。しかし湿度は終日高いらしい。蒸し暑く、不快な一日になりそうである。そんな状態が水曜日まで続くかと思うと気が重くなる。
 来週からは本腰を入れて退職者会ニュースの作成に精を出さなくては行けなくなった。できるだけ短時間で集中して完成させたいものである。


8月末も川崎浮世絵ギャラリーへ

2023年08月12日 20時35分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 川崎浮世絵ギャラリーで涼みがてら展示を堪能したのち、次回の「浮世絵に描かれた物語キャラクター大図鑑」のチラシをもらった。河鍋暁斎の「鐘馗図」などに再会するのも楽しみでなので次回も訪れたい。
 さらに川崎駅北改札口の喫茶店で休みながら涼んだ。5時を過ぎてからようやく暑い外気の元に出て、横浜まで戻り食材等を購入して帰宅。


「国芳×芳幾×芳年」展

2023年08月12日 19時44分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日も暑い陽射しの土曜日であった。人手の少ないところに出かけたい、ということで二人で選択したのが「川崎浮世絵ギャラリー」で開催している「国芳×芳幾×芳年」展。美術館・博物館は混んでいると敬遠していたものの、空いているに違いないと勝手に断定して訪れてみた。
 ここは以前に友人と3人で訪れたところ。そのときも混雑しておらずゆったりと見ることが出来た。今回も川崎駅構内の喧騒が嘘のように静かな場所である。ギャラリー内にせいぜい15人ほどがいるばかり。今回もユックリと落ち着いて鑑賞できた。入場料500円はお得感がある。

      

 展示は70点であったが、いづれも私には良い刷りの作品ばかりに思えた。今回の展示では月岡芳年の「藤原保昌月下弄笛図」(1883)、同じく「月百姿 玉兎 孫悟空」(1889)、ならびに「金太郎捕鯉図」(1885)に目が止まった。特に「金太郎捕鯉図」は鯉の周りの波の薄い青が印象的で鯉が揺らめくように動く錯覚を覚える。この絵葉書は販売しておらず、2012年に横浜美術展で開催された「はじまりは国芳」展の図録からアップしてみた。
 また同じく芳年の「山姥 怪童丸」では、浮世絵からする西洋画のマリア像の模倣作品を見ることができた。



連休の過ごし方

2023年08月11日 23時06分34秒 | 読書



 本日は山の日という新しい休日。少なくともこの3日間は繁華街には出向かないほうが良い、という。先ほど記載したように人混みに飛び込んでいくようなものである。家電量販店もいかにも混雑している気配がした。有隣堂もレジには店の外まで人がかなり並んでいた。やすい喫茶店でも本を熱心に読んでいる私の年齢に近い人がかなりいた。教科書を広げている中・高校生もかなりいて、店は混雑。百円ショップも身動きが取れなかった。
 電気代の高騰を考えれば、喫茶店で涼みたいがあまり歓迎されそうもない。致し方ないと思うが、時間を指定する喫茶店もある。図書館も涼しくていいが、椅子がごく少なく、少々遠く、そして私は図書館というものをあまり好まない。少々遠くてもいい運動だ、と思わないのがいけない。美術館・博物館も昨日のような混雑では、とても行きたくない。

 ということで、明日の予定が思いつかないうちに入浴タイムとなってしまった。明日のことは明日考えるしかない。


飛び込んでしまった人混み

2023年08月11日 21時48分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 登山用の杖をT型の杖を突いている。数日前に先端の硬質ゴムが破損したらしく、先端の鉄部が露出してしまった。かたいタイル舗装やビル内、地下街などでは先端が滑りとても危ない杖となってしまった。
 みなとみらい地区の山の用品店で修理ないし、先端の硬質ゴムのキャップを探しに出かけた。しかし横浜駅からみなとみらい線に乗る時、ホームの込み具合や、人々の出で立ちに何か異様を感じた。みなとみらい駅に着いて仰天。そのホームから人が溢れそうな具合、改札を出てからの身動きできないような混雑、頭にポケモンの形のキャップをした子どもや若いカップルなどでごった返していた。便所も長蛇の列で断念。
 目当ての山の洋品店では親切な店員が硬質ゴムのキャップを探し出してきてくれた。わずか300円余で購入した。しかしあくまでも応急用。扱っているメーカーの杖ではないので修理はできないとのこと。これはちょっとがっかりしたが、それでもしばらくはこの硬質ゴムのキャップで安全に使えそうである。
 店を出てみてようよく異様な混雑の原因がわかった。ポケモンのイベントが行われていたらしい。改装中の広い横浜美術館前の広場はぎゅうぎゅうの混雑。皆思い思いにポケモングッズを身につけた小さな子ばかりか、若いカップル、そして中年のカップルまでまじりあっていた。中には私よりも明らかに上の年代の80代に見える老夫婦も二人で写真を撮っていた。ポケモンなどまったく興味のない私のような老人が一人で歩く場所と時間ではなかった。

 所用が済んだのち、みなとみらい駅に戻っても混雑の中を逆行するので、少し遠回りの道を探しながら横浜駅まで歩いてみた。さいわいビルの影が覆っている歩道が多く、汗はあまりかかずに横浜駅東口に辿り着いた。西口で一服してバスにて帰宅。
 よりによってこんな混雑の時間帯と場所に飛び込むとは想像もしてなかった。以降、夏休みの期間は目的の場所と時間について下調べをしてから出かけることにした。

 


「甲斐荘楠音展」 感想

2023年08月11日 21時03分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 甲斐荘楠音(かいのしょうただおと)という日本画家の名は、ツィッターの広告で私は初めて聞いた。広告にも出ているチラシに引用された作品はあまり惹かれなかった。NHKの日曜美術館でもその印象は変らなかった。
 何しろ歌舞伎や戦後の旗本退屈男などの時代劇にもまるで興味がなかった(今でも)私にはとても遠い存在に思える。
 しかし歌舞伎の「女形」になりきって何かを探り、作品に仕上げるという執念ということについては、惹かれる。多くの作品が展示され、時代劇の主人公が装う衣装のデザインに凝ったこだわりも感じたが、残念ながら私には共鳴するモノがなかった。



 作品の中で私の目をひいたのは、1931(昭和六)年頃という《椅子に凭れる女》である。当時のモダンな洋風の服装で女性を描いている。不安定で不自然な、多分あり得ないような姿勢で描いているが、黒を基調とする斜めの構図も女性の身体の無理な屈曲も表情も色合いも、そして筆致も新しい何かを求めていると感じた。
 柳条湖事件を契機として満州事変という名の戦争へ大きく政治も傾いた時期の作品である。いつもながら戦争への道、国内の経済・思想・文化統制と現実のギャップに私は驚く。私の想像力が足りないのかもしれないが、このようなモダンで、なまめかしい作品が描かれ、受け入れられていたこととのギャップが恐ろしいと思う。この翌年には5・15事件、5年後には2・26事件、7年後には国家総動員法が樹立される。
 この時期の画家の社会との関りについては手がかりとなるような作品が私の目には入らなかったので、よくわからない。画業の方向性で何か行き詰ることでもあったのか、総動員体制の成立直後からは映画界への転身となるわけであるが、そのあたりのことは残念ながら図録を購入するゆとりもなく、私の想像力は及ばない。



 ただ画家が最後まで手もとに置いていたという作品「畜生塚」と「虹のかけ橋」のうち前者は「椅子に凭れる女」の延長線上にあるような女性像が密集しており、とても気になった。
 題材は豊臣秀吉が養子秀次を自害させ、幼児、妻妾約30人を処刑して三条河原に埋めた残虐な事件である。描かれているのは女性だけで、それらの像は、従来の日本画に描かれ、また作者が描いてきた女性像とは違い表情も仕草もとても洋風である。初期に作者が影響をうけたというルネサンス期の西洋画の女性群像と見紛う。
 もう少し大胆な仮説も立ててみたいが、もっと勉強しないと独りよがりとなりそうなので断念。

      


疲労の原因

2023年08月10日 22時48分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日はかなり体力的に疲れた。どうしてか、ようやくわかった。午前中に打合せと昼食ののち、意識の上ではそのまま京浜東北線で上野駅まで行った。しかし実際は、家から神奈川大学の生協まで歩いていた。そして生協が夏季休業であることがわかり、バスにてJRの駅まで出向いていた。この生協まで歩き、直近のバス停まであわせて3000歩ほどの歩きがあった。家に戻ったときは正味1万歩を越えていた。杖を突いているとはいえ、それなりに疲れる。これが東京都美術館での疲労の原因だとわかり、少しホッとした。
 電車で行っただけでどうしてこんなに疲れたのか、不思議であった。しかし一番暑い中の歩行が意識に残っていなかったのは少々驚きというか、深刻な気分になった。思い出したのはうれしいが、どうして忘れていたのか、考えるとますます深刻になる。あまり考えないことにして本日は早寝としたい。
 昨晩のように寝苦しくて寝られない、というほどの湿度ではないような気がする。