昨日に続いて、鹿児島市の明治維新関係の史跡を訪ねます。
西南戦争が、私学校の生徒による火薬庫襲撃に端を発したことは良く知られていると思います。
鹿児島市草牟田にある、陸軍火薬庫跡の碑です。
ここに、旧薩摩藩から明治政府に引き継がれた武器弾薬庫がありました。
私学校の生徒の暴発を恐れた政府は、武器弾薬を大阪に運ぼうとしました。
これを察知した私学校の生徒が、「これは我々のものだ」と言って、ここを襲ったのです。
大隅半島で猟をしていた西郷隆盛は、これを聞いて
「しもた」 「万事休す」と嘆いたそうです。
これが発端となり、西郷は西南戦争の首謀者に担がれ、賊軍として生涯を閉じるのです。
実際の火薬庫があったのは、ここから100mほど山側(写真では向こう側)だったそうです。
石碑の山側は墓地になっています。
前の写真と反対側から見たものです。
石碑は、墓地の向こう側の崖の右にあります。
火薬庫があったのは、この墓地の中と思われます。
鹿児島では、今頃、「セゴドンのエンコ」という行事が行われます。
漢字で書けば、「西郷どんの遠行」であり、西郷さんの史跡を訪ねて歩くものです。
西南戦争が、私学校の生徒による火薬庫襲撃に端を発したことは良く知られていると思います。
鹿児島市草牟田にある、陸軍火薬庫跡の碑です。
ここに、旧薩摩藩から明治政府に引き継がれた武器弾薬庫がありました。
私学校の生徒の暴発を恐れた政府は、武器弾薬を大阪に運ぼうとしました。
これを察知した私学校の生徒が、「これは我々のものだ」と言って、ここを襲ったのです。
大隅半島で猟をしていた西郷隆盛は、これを聞いて
「しもた」 「万事休す」と嘆いたそうです。
これが発端となり、西郷は西南戦争の首謀者に担がれ、賊軍として生涯を閉じるのです。
実際の火薬庫があったのは、ここから100mほど山側(写真では向こう側)だったそうです。
石碑の山側は墓地になっています。
前の写真と反対側から見たものです。
石碑は、墓地の向こう側の崖の右にあります。
火薬庫があったのは、この墓地の中と思われます。
鹿児島では、今頃、「セゴドンのエンコ」という行事が行われます。
漢字で書けば、「西郷どんの遠行」であり、西郷さんの史跡を訪ねて歩くものです。