エドワード・T・ホールがパーソナルスペースについて定義しています。
それは、密接距離、個体距離、社会距離、公共距離。
密接距離は赤ちゃんと母親の関係に代表されるように、
肌と肌の接触です。
個体距離は握手をしようと思えば、互いの手がむすばれるような距離。
映画のシーンで言えば、ETの指と人間の指が伸ばせば触れ合う距離です。
社会距離は手を伸ばしても握手が出来ないような距離。
それは販売員と客との距離と考えると判りやすそうです。
公共距離は社会距離よりも離れた距離です。
大人数の大衆に対する講演者と聴衆の距離をイメージすると判りやすいかもしれません。
さて、私が最近気になるのは個体距離と社会距離の感覚の取違いです。
一方の生徒は身体接触もありえると捉えているのに
もう一方の生徒は、触れられることは不快にとらえる高校生の男子生徒。
犬のじゃれ合いを想像してみてください。
本気だけど、ケガはさせないようなじゃれ合いによる遊びです。
私の職場でも同じようなじゃれ合いを高校生放課後などにしています。
犬のじゃれ合いと異なるのは
そのじゃれ合いを通じて、実際に問題がおこっているということです。
一方は取っ組みあいをしながら、ネッグロック。
首を軽くロックして、プロレス遊びを楽しんでいるのです。
しかしながら、もう一方は止めてくれ、イヤだと言えなくて我慢。
心の内とは対照的に相手に笑顔を見せながら、
相手に合わせての取っ組み合いをするのです。
やられている方は、相手に合わせて過ごす日常に疲れてしまいます。
結果として学校に来られなくなってしまう生徒がいます。
SNSに過激な書き込みをしてストレスを発散。
その書き込みが原因で問題が発生することも出てきます。
問題が大きくなり親がクレームを学校に言ってきたり、過激な学外の友人が問題解決に顔を出したりして、さらに事が大きくなってしまうこともあるようです。
問題が大きくなり、それを解決するのが私の仕事。
その解決の仕方は簡単にはいきませんが、
原因は明らかなのです。
それは、自分たちの仲間を個体距離の仲間であると感じている生徒と、
個体ではなく社会距離であると感じている生徒との交わりによる距離感の祖語。
それらをどのように解決したらよいかを悩む日々です。