「折半厨」についての記事を準備している折、あれこれニュースを見ていたら、パラパラと記事で取り上げられている牛角の女性半額セールに対する批判と、それに対する反論に関する現代ビジネスの記事を見つけ、まーたしょうもない内容かと思ったら、結構的を射た内容だったので、この機会に取り上げてみたい。
その題名は「牛角が『女性半額セール』で大炎上…『男性差別じゃない』『非モテの僻み』と言い張る人たちの『お粗末すぎる擁護論』」というもので、端的に言えば、牛角の女性半額セールへの批判に対し、そのセールを擁護したり、批判者の人格を否定するような意見を列挙して
(1)男らしくない(男としての器が小さい、ダサい)
(2)そんなんだからお前(ら)はモテない
(3)営利企業の経済活動の自由である
(4)デートで使えば男もお得なんだから文句を言う理由がない
(5)男の食べる量が多いのだから女は安くしてもいい(これまで女性は損をしていた)
(6)キャンセルカルチャーはよくない
という具合にまとめている。その上で、これを女性差別を批判する人たちに投げかける言葉に変換してみたらどうなるか?と問うのである。
言うまでもないことだが、それら批判的言説というより「侮蔑」や「人格否定」と呼ぶべきものは非難され、歴史の中で淘汰されてきた(もちろん絶滅したなどと言うつもりはない)。今ではむしろ、そういった言葉を口にする手合いの方が、むしろそのオツムや人格を疑われる状況となっている。
ここで極めて不思議なのは、そうした歴史を私たちは見てきたはずなのに、どういう訳か批判のベクトルが「男性→女性」となった今回の件において、その擁護者たちが同じ轍を踏むという偽善と愚昧さを露呈していることである。
おやおや、一体いつから、男性と女性は法的に不平等になったのか?と嫌味の一つも言いたくなるが、あまり益のない皮肉は紙幅の無駄なので、少し前に書いた「いわゆる『おじさんの詰め合わせ』発言とそれへの反発について:『平等』を求めるなら当然同じ基準で評価されるわけで」という記事にて触れた、
1:男性と女性の立場が以前に比べれば近くなっている
2:男女平等という理念がそこかしこで謳われている
という2つの理由から、「女性→男性」というベクトルでの揶揄が、1によって男性心理から以前より反発を生みやすく、かつ2によってその反発にお墨付きも与えられやすい、という状況なのではないか。
という話をもう一度確認しておこう。
その上でさらに踏み込むなら、今回の牛角の件で露呈したのは、詰まるところ「強者たる男性は女性の権利主張に対してはその立場ゆえに受け入れるべきだが、一方で自身は強者であるから女性が優位に立っていることを否定するのは人格的に問題のある行為である」という非対称なスタンスであり(これは「区別」という言葉では正当化しえない)、そういう前提に基づきながら男女平等を説く己のグロテスクで欺瞞的な態度に、多くの人間が気付いていないし、そこを慎重に吟味しようとする構えさえない、という実態と言えるだろう。
まあ要するに、権利を認めるというのは法の下の平等という意味でも一般性を持つ話になるわけで、自分[たち]だけの範囲で済むはずもないのである。そのことを理解せずに、自分たちのことだけは主張し、他者がそうしようとすると自分がそうされたのと同じ品位も論理性も疑われる主張でそれを潰そうとするのは、おそらくマインドの中に社会性や他者性が欠落しているからだろうと思われる。
私はこれまで、「告発の交換可能性について:女性の訴えが腹立つなら、男性の訴えも奨励したらええやん」といった記事で、男性が被害や不正を忍従しているのだから女性もそうすべきだという態度は愚の骨頂であり(なぜなら社会の良化には繋がらないため)、双方とも主張をしていくべきだと述べた。またあるいは、「言い分を交換してみよう:Tバックと下ネタとセクハラと」という記事で、男女で言い分を交換してみると、それに対する反論の欺瞞性が浮き彫りになって気付きにつながる、という記事も書いたことがある。
要するに、主張の欺瞞に老若男女は関係なく、社会的背景も踏まえたその主張の論理的正統性こそが重要なのであって、その意味で「男女平等を社会的に実現しよう」という理念を謳いながら、「男性差別である」という主張に対しては、到底逆のベクトルには交換不可能な人格否定さえ垂れ流されているという状況を疑問に思わないなら、それは単なるポジショントークに過ぎず、そしてポジショントークで何が悪いと居直るなら、同じようにそう居直る男性側を非難する資格もまたないのだ、と理解すべきだろう(ついでに言うと、私は「女尊男卑」なる言葉を掲げて現状を非難する向きに対しては、かなり冷ややかな目を向けている)。
ともあれ、今回の牛角のアレは、そういう他者性を欠いたまま、ただただ自己正当化のための言説を垂れ流したり、ただ脊髄反射のように直感的に思ったことを口にするだけの人間がゴロゴロいることを可視化したという点で、大変優れたリトマス試験紙の役割を果たした、と言えるのではないだろうか。
以上。
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