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田原坂と抜刀隊の話

2023-01-09 10:56:56 | 歴史系

そういえば熊本帰省時に熊本城を訪れた際に西南戦争と会津出身の抜刀隊について触れたが、

 

 

タイムリーに見ていた「田原坂」の時代劇でも言及されていたので一応紹介しておきたい。そういや抜刀隊には藤田五郎(元新選組の斎藤一)とかも関わっていたんだったか。斎藤一は老齢の写真がとても印象的で、表情は穏やかなのに目が座っていて、これはもう明らかに殺ってますわ・・・としか言いようのない昏い瞳がやたら記憶に残っている(例えば山本権兵衛の精気漲る眼光とは真逆というかね)。

 

 

 

なお、「夢が咲き~」の歌は同時期にやっていた「五稜郭」で流れる「夢の咲く頃」。

 

 

 

「田原坂」の方は「遥かな轍」である。

 

 

 

予断だが、この時代劇を見ていてやたら印象に残ったのが「五稜郭」でも「新選組」でもなく、「アボルダージ」と「林洞海」だったのは子供ゆえの偏りだろうか?ちなみに林が順天堂の前進である和田塾にも関わっていることまで記憶に残っていたが、そこから津村順天堂の関係者という誤った認識をしていたりと、まあ人間の記憶とは当てにならんもんである(゚∀゚)アヒャ

 

この話は五稜郭を訪れた2回目の北海道旅行や会津を訪れた東北旅行の記事でまた言及することになるだろうが、一応忘れないうちに触れておいた次第。


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2 コメント

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マルテンサイト千年特殊鋼 (サムライ鉄の道リスペクト)
2024-09-27 09:14:31
それにしても古事記はすごいよな。ドイツの哲学者ニーチェが「神は死んだ」といったそれよりも千年も前に女神イザナミ神についてそうかいてある。この神おかげでたくさんの神々を生まれたので日本神話は多神教になったともいえる。八百万の神々が出雲に集まるのは、イザナミの死を弔うためという話も聞いたことがある。そしてそこから古事記の本格的な多神教の神話の世界が広がってゆくのである。
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「神の死」は「脱呪術化」も「超越者からの脱却」も意味しない (ゴルゴン)
2024-10-03 10:58:29
コメントありがとうございます。

古事記における「神の死」とニーチェが言う「神の死」は、日本とヨーロッパ(ドイツ)の状況があまりに異なるため、単純な比較やどちらが「先」・「後」、もしくは優劣を論じることは難しいように思います。

例えばキリスト教は多くの場所で土着の信仰を否定ないし黙殺しながら広がっていったわけですが、それも「神殺し」と言えなくはないですからね(ちなみにキリスト教が国教化されヨーロッパに広がったのは『古事記』の成立より早い4世紀末のことです)。

私がサムライ鉄の道リスペクトさんのコメントで興味深いと感じた部分は、むしろ「神の死」を早くに書いたという日本も、ニーチェが「神の死」を宣言したドイツでも、それが「脱呪術化」はもちろん「超越者への没入からの脱却」を招来しなかった、というアナロジーです。

日本では、明治の近代化の際に「天皇=現人神」というフィクションが生み出されたわけですが、為政者のトップ層はともかく、一般大衆はこの幻想を信じ込んで近代化とその先の破滅的戦争に突き進んでいったわけです(まあ「信じているフリをしておいた方が何かと便利」という三島由紀夫の言う「一番病」的な如才ない連中もそれなりにはいたでしょうが)。

もし『古事記』とそこに記録された話を通じて日本では神の死=神の相対化(とここではしておきましょう)が進んでいったというのであれば、このような状況は惹起しえないはずです(ちなみに日本の組織そのものは、丸山真男がセクショナリズムという特徴を指摘したように、思想とは異なり全く集権的とは言えないものだった点は注意する必要があります)。

そしてドイツについては、ナチスの例を挙げれば十分でしょう。そこまで認知されていないように思いますが、実はナチスはキリスト教に否定的でした。というのも、ゲルマン人にとってそれは「外来の宗教」だからです(と聞くと日本において仏教が攻撃される際のロジックを想起させて興味深いところですね)。

ゆえに、「アーリア人」なるものを夢想してその本来の姿(?)に遡行しようとした彼らは、古ゲルマンの信仰を追い求め、怪しげな呪術を繰り返すカルト集団という側面を持っていました(ここでヒトラーが「ニーベルンゲンの指輪」などを制作したワーグナーを激賞していたことを想起するのも有益でしょう)。つまり、キリスト教を否定はしましたが、それは「神の死」として宗教や神から脱却したということでは全くない、ということですね。

もちろん、ナチスの台頭というのは第一次大戦の敗北とその後の経済的苦境や政治的混乱といったアノミーを背景に生じているので、ニーチェが言及した状況から単線的に繫がっているわけではない点には注意する必要がありますが(あえて図式的に言えば「神の死」を政治や経済のアノミー状態とあわせて強い不安に駆られた人々が、新たな没入先を探した結果、という表現ができそうです。これはナチスに限らず、「神なきキリスト教」とも言われる共産主義などにも適用でき、実際世界恐慌の後で急速に台頭したのはナチスと共産党でした)。

とはいえ、「神殺し」の日本もドイツも、ともに超越者に没入してファシズムへとひた走っていったというアナロジーは大変興味深いとともに、知識人が記した書物や言説というものが、所詮は意識の高い一部の人間の姿を照射したに過ぎないことを再認識することができました。

ありがとうございました。
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