島後西南部の油井の浜を見た後で、北上して水若酢神社へと向かう。
ルートとしては東→北と山道を通るルートと、北→東という海沿いのルートがあるが、さっきの脱☆輪トラウマがあるため山道は死んでも通らねえ、というわけで後者を選択(・∀・)
鳥居をくぐって細い道を歩くってのは隠岐に来てからは初めてのパターンな気がするなあ。だいたいは四角く囲われた境内の前に鳥居がドーンとある形式(まあそれが一番スタンダードなんだからそりゃそーだって話だが)ばっかだったからね。
この辺りは所有地的な問題なのか、何か他の要因があるのかは謎である。
道を進むと再び鳥居が設置されていた。
なお、左手前に見えるのは
こちらの土俵。そもそも隠岐では奉納相撲が盛んなのだが、その中でも代表的なものであり、20年に一度の遷宮の際にここで相撲が取られていたらしい。
規模こそ大きくないが、しっかり整備されていて現役であることを物語っている。
どんどん進んでいくと、
こちらが社殿となっていて、隠岐特有のしめ縄をこちらでも見ることができる
社殿から山門・入口側を見た景色がこちら。
春日神社や御客神社などもそうだがやはり周辺を巨木に囲まれており、そこからも歴史の長さが伺える。
こちらは重要文化財にも指定されている隠岐造の本殿。独特な存在感があって印象に残る。
なお、島後にある他の神社と比較しても明らかに大きく、力を持っていることは明白なのだが、中世には守護代の隠岐氏と対立を深めていたこともあって戦火に巻き込まれ、記録が消失したり宮司が交替する(させられる?)など、不遇な時期もあった(この点、同時代の類例としては尼子氏が支配していた本土の出雲とそのコントロール困難さを想起するとわかりやすいかもしれない)。そのため、元は「水若酢命」が祭神で、名前もそうだったが、どういう経緯で名前が変化していったのかは不明となっている。名前からは同じく島後を代表する神社とその祭神「玉若酢命」との関連性があるとも考えられているが・・・
しかし近世になると盛り返し、さらに幕末には国学者が境内に私塾を開いて尊王攘夷の思想を広め、それが後の隠岐騒動の発火点になるなど、重要な役割を持ち続けていたようだ。
そんな神社の歴史を思いながら歩いていると、またぞろ古墳が登場。これ西郷港近くの水祖神社にもあったなあ・・・どうも古くから霊験あらたかな場所だと認識されているところに古墳ができ、後に巨岩や巨木などを祀るための簡素な設備(?)が作られ、それが後に境内・社殿として整備されていった、ということなのだろう。
うーん、その意味ではこの水若酢神社のことを知ると、そのまま隠岐の神社の動静を追っていくことになっておもしろいな。山中の壇鏡神社では、そこにある虚空蔵菩薩とその来歴から近代以降の宗教状況を知るよすがとしたが、この神社は近世以前の宗教がどのように推移したかを知るのに有効な材料の一つと言えそうだ。
とあれこれ考えたところで、次なる目的地に向かって進むことにした。
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