「どこ行く?」と「どこ行くの?」という疑問文の違いは何かと問われれば、前者は自分を含み、後者には自分が含まれない、といった具合に簡単に説明できるだろう。しかし、「なぜそのような違いがあるのか?」「その由来は何なのか?」と問われれば、説明は一気に難しくなる・・・
はいどうも、ゴルゴンです。言葉やそのルールというものは、あれこれ考えず丸呑みした方が早いことも多々ある一方、ひとたび問いを立てたなら、とても本質的というか、深い思考を要求されるものです。逆にそれがない、もしくはそれを誘引するような仕掛けがなければ、言語の学習というものは極めて道具主義的になるのであり、そうして学習されたものは実際に「道具」として使わなければ、価値がないと感じるのは必然ですし、忘れるのも当然なのでありマス。
え、何の話をしているのかって?これが「漢字の到来と古典の学習について」などで何度か問題として取り上げた、古文や漢文(古典)の学習とその意味である。意味とか背景とかいいからとりあえず呑み込め、というのは、四則演算などと同じで具体的に何かに使うならば、別にそれほど違和感なく受け入れられるだろう。しかしながら古典については、そのような効能が期待できない(実感する場面が極めて少ない)。だから、「学校で教える必要がない」という主張が必然的に出てくる訳だが、これに対して反論する側は「役に立つとかそういう問題じゃない」という立場を取ることが多い。そして「古い時代を知ることが今の時代を知ることに繋がる(連続性の理解)」だの「今とは違う社会の発想を知ることで、現代の社会をよりよく理解することに繋がる(不連続性による対比)」だのとのたまうわけである。
で、私がその主張を聞いていると、「ご高説は結構なんだけど、じゃあ今の古典学習って、どういう風にあなたのおっしゃるその『目的』に向けて最適化されてるんですかね?」という疑問が湧いてくるわけだ。例えば『蜻蛉日記』という平安時代の作品があるが、そこから何を学び取る目的になっていて、それを達成するためにどんな仕掛けが行われているのだろうか?仮にそれが「妻問婚」であるなら、平安時代の形態を『源氏物語』などで見つつ、さらに鎌倉時代以降では武家社会の到来による婚姻形態の変化を見ていくことになるだろうし、一方で農村社会においては、妻問婚的仕組みが江戸時代になってさえ残っていたとの認識も重要であろう。あるいは蜻蛉日記の文学史的意義ということなら、それを評価した諸々の作品を挙げてその説明に代えつつ、各時代の思想の変化という視点で取り上げることになるだろう(こう聞くとそんなハイレベルなものをやらせるのかと驚かれるかもしれないが、入試で出題される現代文や古文・漢文の融合問題にはこういった視点の作品は数多く登場するようなので、むしろ入試対策としても役に立つという意味で実利的だと思うのだが)。
逆に言えば、そういったことをしないで、(おそらく今もなお一般的に行われているであろう)活用表を覚えて品詞分解を行い、その作品の背景を申し訳程度に説明する・・・といったアプローチで、一体生徒はわざわざ古典として(=原文のまま)それを学ぶどのような効果を体得できるのだろうか?あるいは言い換えると、そのようなやり方でどのような効果があると具体的に立証できているのか、私には皆目見当もつかないので、ぜひ説明していただきたいと思っているのである。
言い換えると、「古典の学習を役に立つとか立たないとかいう視点で評価するな」という主張に対し、私は今の古典学習はそういう基準でしか評価しえない、道具主義的な教授法になっているのではないかと考えており、そう思わないならばその理由を、そう思うならばその解決策を、「古典学習は重要だ」論者にはお伺いしたいのだ。
別にこれは難癖をつけているのではない。例えば原文で学ぶことでその特異性を実感させたいと言うのであれば、『枕草子』と『紫式部日記』を対訳も含め並べてみるとよい。すると前者の切れ味の良さ・リズムの良さが際立つとともに、一方で紫式部の舐めるような(とさえ言える)観察眼を認識する契機にもなるだろう。
逆に言えば、そこまでやらないと、わざわざ原文で学習し、それを何がしかの文化や文学の理解に結びつけるという目的は、達成しえないように思われる。というか、その主義主張に則るなら、そもそも文章を主体にした学習という発想が間違っているのであり、例えば「婚姻形態に関する差異」・「死生観の変化」といった問題設定を先に行い、その具体例として『日本霊異記』や『宇治拾遺物語』といった時代を超えた複数の作品を持ち出して読解・分析を行うスタイルになるだろうし、むしろそれしかありえないと思うがどうだろうか。
いやいやそれは研究者的なアプローチではないか、そんなものは中学生・高校生には難しすぎる、などと言われるかもしれないが、その発想がそもそも間違っていると私は考える。すなわち、今述べたような学習法をどう中高生にもわかりやすく、興味を持ってもらえるよう配列するかにこそ意を用いるべきであって、そこを回避するなら、今の道具主義的な教授法は変えられないし、それだったらいつまで経っても「役に立たない」論はついて回るし、むしろこれからどんどん強くなっていくのではないだろうか(なぜなら、プログラミングを始めとして、学校で学ぶべきとされる情報は増え続けているので)。
古典学習の重要性を説く人々は、その危機感と変化の必要性をどの程度理解しているのかを私は強く疑っているし、仮にそれらを持たずに古典学習の継続を主張しているのであれば、単なるお題目や既得権益の維持でしかなく、少なくとも私にはそうとしか見えない。さらに言えば、どんどん数の減っている貴重な中高生を、そんな主張の被害者・実験台にするなよとも思うのである。
・・・とここまで書いたところで、橋本陽介『日本語の謎を解く』という本を紹介しようと思ったが、もうかなりの量になってしまったので、別の機会に譲ることとしたい
旅先でのオーラルコミュニケーションさえできればOKというレベル感は別として、母国語以外の言語を正しく読み解くために文法を学ばないで済ます手段は今のところないのではないかと思っており、そこにおいては背景知識などは、いかにそれが理解促進に資するとはいっても、翻訳者が介在するのと変わらぬ二次情報にすぎないでしょうな。
だからと言って私もそれがだめだと言うつもりはなく、「その程度でOKな人」にはその程度でOKなのだと思いますよ。
ただ、大学入試の英語の試験で柴田元幸あたりが訳した文章で問題が作成されるようなことがあるわけはないのと同様、古文の原文という一次情報を正確に読み取ることのできる知識や論理的思考力を有しているか否かを測るためには、どこかで文法を学ぶことから逃れられないような気はします。
ところでこれは純粋な疑問ですが、英国人の子弟がシェイクスピアの「ハムレット」を古英語で学んだり、ドイツ人の子弟がゲーテの「ファウスト」を原文で学んだり、それこそヨーロッパの学生がラテン語を学んだりすることも不要だとか、時間の無駄だとかいう議論が彼の地では起こっていたりするんでしょうかね?
先に書いておきますが、木場さん個人の価値観としての話、言い換えると「私にとっての古典学習の意味」という観点であれば、コメントの内容には全く異論はありません。
というのも、仕事などで使う訳でもないのに、わざわざ大学ですら学習していなかったドイツ語を自ら学び、その上で原典を読むなどしていることを私は知っているし、それに敬意も払っているからです。そのような状況を踏まえ、コメント内容をあくまで個人的なものとして捉えるのであれば、まさに「言行一致」の最たるものだと感じます。
ただ、一般的状況の評価としてなら話は全く別です。その点を踏まえた上で、お読みいただけると幸いです。
さて、私の記事の内容を何か勘違いされているようですが、この文章で述べていることは、「役に立つか否かという基準で古典の学習を評価するな」と主張する人たちが一定数いて、そう言うのであれば、学校でその目的が達成されるような教育内容に現在なっていると考える根拠を、ぜひ論理的にご説明いただきたい、ということです(なぜなら、教育実態がそうなっていないという認識でいるならば、前述のような意見が出て当たり前だという反応をするはずですが、私はそいう様子を目にしたことも耳にしたこともありませんので)。
私の認識では、現在の教育は概してそのようなものにはなっておらず、興味も喚起されず目的もよくわからぬまま、「学校のテストで出されるから」、「受験で出るから」、教わったことを覚えるしかない、という道具主義的な教示方法がまかり通っています。そしてそれがゆえに、「古典の学習は役に立たないからやめた方がよい」としばしば言われてしまうのではないか、ということです(言い換えれば、意図した教育ができていない、ということですね)。
具体的な例は次の記事で出すつもりでいましたが、一つだけ挙げるなら、「漢文を原文で読まなければならない理由」とは例えば何でしょうか?いきなりレ点だの再読文字だの漢文の句法を教わっていく中で、その意義は理解されるものでしょうか?私は全くそうは思いませんし、逆にこういった場面で何かしら工夫がされている事例をご存じなら、ご教授いただけますと幸いです。
さて、一つのアプローチ法としてですが、近代文語文を漢文との対比で取り上げてみるのもよいでしょう。すなわち、同じ日本語にもかかわらず、その文章を読んでいて非常に硬質な印象を受けるのは、単に「畢竟」といった今では滅多に使わない言葉を使用しているだけでなく、文体による点も大きいのであって、それは漢文の書き下し文と強く関係しています(木場さんには釈迦に説法でしょうが)。
つまり、漢文やその書き下し方を学ぶというのは単なる「作業」ではなく、近代を生きた人々の発想やリズムに漢籍の素養も含めて大きな影響を与えていたのであり、ゆえに漢文とは異国における遠い昔の言語をただ学んでいるのではなく、実は私たちの足元を構成する要素である(かもしれない)とまずは認識してもらうことに繋がります。
ただ、このことを踏まえるなら、実は「現代文」と「古文」という具合に分けること自体、ナンセンスの極みではないか、という問題提起もしておきたいと思います(これも現状のシステムに関する問題と言えるので)。
まあそれを言ってしまうと、リベラルアーツなどでよく話題となるように、そもそも「文系」・「理系」なるカテゴリー分け自体がどうなのか、という議論にもなりますが。
あるいは、今回話題としている古典学習の狙いと(少なくとも私の見解では)その不達成ということについても、ペーパーテストによる選抜と、そこから逆算した教育内容(にならざるをえない)という仕組みが、もうそろそろ耐用年数を過ぎつつある、という見方にも繋がるようにも思います。
この辺、実際大学入試は推薦枠が増えてきており(東北大は全ての枠を推薦にするのだとか)、その意味では「ゴール」の変化がパラダイムシフトをもたらす可能性も無いとは言えませんが。
その意味で言うと、古典不要論がしばしば言われる背景の一つは、大学という高等教育機関での活動や学びさえ、「ガクチカ」すなわち就職というゴールから見た有用性で語るスタンスと、実は類似しているのかもしれませんね(ちょっとこの話は長くなるので割愛しますが。ただ、この見方が正しいなら、古典不要論を馬鹿げていると一蹴するのはむしろ不適切で、時代背景に基づいて必然的に生まれてきたものとして、むしろ一層真剣に向きあう必要があります)。
ともあれ、古典の学習などというものが始めからどうでもよいと考えている方々なら別にいいのですが、それが重要であり、かつ有用性といったわかりやすい基準でその価値は測れないのだ、と主張するのであれば、それが受け手(主に学生)に伝わる教授法をとことんまで追及する必要がある、いや責務があるとさえ言ってよいのではないでしょうか(ただでさえ、覚えるべきことは英語やらプログラミングやらと増え続けているので)。
しかし、本当にそのような責任感と危機感をもった探究などというものはなされているのでしょうか?私が極めて強い疑義を抱いているのは、古典学習の価値そのものというよりもむしろ、この点に関してなのです(ちなみにさっきの話とあえてリンクさせるなら、「海外ではそのような声を聞かない」を根拠に古典学習に疑いの余地を挟むのはおかしいと言うのであれば、日本的な入試形態からも同時に完全脱却した方がよいのではないですかね)。
古典という存在はある意味どの科目よりも白眼視されかねない状況に置かれているのであり(なぜなら有用性がわかりづらいため)、それを甘く考えて、「日本人の心を理解する」だの何だのと抽象的なことを言っていれば相手に理解される・容認されるなどと思っているのであれば、「懐古趣味」や「権威主義」の誹りすら免れないでしょう。そしてそんなお題目に基づいた「趣味」に付き合わされる生徒たちは悲劇と言わざるをえません。
また、「古典を原文で読む」ことによって過去の人々=異なる価値観の人々の発想や思想を深く理解したり、そのリズムを生き生きと鑑賞するどころか、そもそもその時代の出来事や人物の背景すらよく知らない人が、社会の大半を占めているのではないでしょうか。
というのも、もしそうでなければ、例えば「保守」などと自称する人たちのおかしな言説が平気でまかり通るはずもないですからね。このような状況が、「古典学習の目的」なるものが全く果されていないことの証左の一つと私には見えるのですが、いかがでしょうか?
なお、「一次資料」云々という論点を出されていますが、そもそも断片的な、極めて断片的な部分しか学校で何となく教わったことがない人間が大半の状況であり、その表現は大上段に過ぎるように思えます。
そもそも、文学でも歴史学でも何でもいいですが、原文の前に翻訳から入るのが一般的であり(まあそれと同時に先行研究とかも参照はしますが)、翻訳されたものすらロクに読んでいないのに、原文の冒頭だけ読んで古典がわかった「気になる」ような心持ちは、いささか滑稽に思えますがいかがでしょうか。
以上です。
これは以前にもコメントさせていただいた記憶がありますが、国が税金を投じて後進に教育を施さんとするのは、未来の国家運営を託すからに他なりません。ということは、その目標を最も「効率よく」あるいは「確実に」達成するかということに向けて金と時間のリソースをどのように配分していくかということが教育行政にとっての重要な課題になると思います。その際、マスレベルの国民像をどう描くかということは、基本理念レベルの重要事項として考えられていることだろうと推測します。(「代表的日本人」? まさかねw)
「マスレベルの国民像」。一体どうあるべきなのでしょう。
超新星爆発一歩手前のような状態であっても、やはりこのグローバル資本主義世界で列強を伍して勝ち抜き、我が国に大なる金銭的利益をもたらす企業人なのでしょうか。あるいは安定的に国家運営を下支えしてくれる行政官やそのサポート的な役回りの人々でしょうか。
この部分の「べき論」について語るのは本稿の論旨からは逸れる気がします。
しかし、概ねここで設定される国民像からすれば、古文・漢文を原文で解釈できる能力はほとんど必要とされなさそうです。
そして私が最初のコメントの冒頭で「一次情報を読み取ることのできる能力涵養の必要性」を口にしたのはこのポイントを念頭に置いたものになります。
ただ、では英語ならばそれがマストなのだろうかと考えると、これまではその必要性が高かったとしても、これから先はそうでもないのではないかなという気がします。現在でもDeepLのような優秀な翻訳ソフトがありますし、オーラル面についてもGPTのような生成AI技術が加速度的に向上することによって言語の違いによるコミュニケーションの壁は一層低くなっていくでしょう。まさにドラえもんのほんやくこんにゃくの世界ですね。
いずれにしても、ゴルゴンさんの「実は「現代文」と「古文」という具合に分けること自体、ナンセンスの極みではないか、という問題提起」はその通りであるばかりか、異言語の関係においてすら同じことが言えてしまう時代が来つつあるということだと思っています。
ここまで考えると、教育へのリソース配分を考慮するにあたっての考え方自体が根本的に間違っていたのではないかという気がしてきます。
ゴルゴンさんが当方の独語学習についてお褒めいただいたのは汗顔の至りというやつですが、実はそのような「自律的な知的探求心を芽生えさせること」にこそ公教育の要諦があるように愚考します。どのようなことであろうと、自分の頭で必要と思えることをより高く広く深く探求しようと行動できるようになれば、それがビジネスの現場であれば会社の利益に、行政の世界であれば住民の福祉向上に、学問の世界であれば人類の進歩に、家庭の場であれば家族の幸福にと繋がっていくわけですから。
そう考えれば、学校教育において古文・漢文が必要か不要かなどという問いは、別の意味で始めからどうでもよい可能性すら否めないという結論に至ります。以前の議論で大学入試において古文・漢文が出題されていることの意味について、富田一彦の説を引き合いに出しつつ、「一定の系(=教科的な枠)の中で論理的思考力が試されているので古文・漢文でもいいし、同様に音楽(楽典)で出題したってよいのだ」という趣旨のコメントをした記憶がありますが、これは今でも間違ってはいないとは思いつつ、大学入試という狭い枠組みにとらわれすぎた発想だなと思います。
大学入試のありようも変わってきているというのは門外漢なのであまり分かりませんが、そうだとしても問われていることの本質は変わらないのではないかと思ったりはします。
いずれにしても、古文を原文で読めるようになるために中高生に古文を教えているのかと言われると、昔はそういう面も少しはあったのかもしれませんが、今は結構怪しい気がしています(それが意図せざるものだとしても)。だいたい様々な同時並行的にやるべきことがあったりする中で、数年間そこそこ勉強したくらいで古文が読めるようになったりするわけはないですよね。それに「春はあけぼの」とか「春眠暁を覚えず」とかで古文・漢文をやりましたというのは噴飯物の話でしょうな。
コメントの冒頭に書いたことにも関連しますが、我々の意見は互いを否定するものではなく、見方の違いなだけな気がしますね。
コメント内容を見るに、最後にある「我々の意見は互いを否定するものではなく、見方の違いなだけ」という認識に概ね同意します。
一例として挙げるなら、
>「自律的な知的探求心を芽生えさせること」にこそ公教育の要諦がある
という点もまさに同感です。なお、公平を期すためにも言及しておくと、例えば高等数学で「生活の中の数学的思考」がカリキュラムで必修となるなど、身近なものをフックに抽象的な高等教育と結びる取り組みは様々な場面でなされているようです。つまり、公教育の側もその方向に動いていかなければならない、という意識は持っているようです(まあ牛歩であると同時に、その達成度合いは如何?という問題は残りますが)。
また、
>その際、マスレベルの国民像をどう描くかということは、基本理念レベルの重要事項として考えられていることだろうと推測します。
というのもその通りでしょう。これは単に教育目的を抽象的に考えた話に限らず、近年の様々な具体的取り組みもそれを傍証するものと言えそうです。
聞くところによれば、共通テスト(旧センター試験)の国語では「実用的文章」なるものが導入されるそうです。これは以前から「契約書が読めない・読まない日本人」という批判をされていたことなどを踏まえていると思われます(まあこの辺りは川島武宜の『日本人の法意識』で提起されたような法社会学的な問題と、小熊英二の『日本社会のしくみ』などで指摘されているように、会社組織が正社員=個人を納税含めて丸抱えするという仕組みなども関係しているため、単に知識だけの問題とするのは不適だと私は思いますが)。
またこの件については、「歴史総合」という科目の導入も同じ問題意識によると思われます。すなわち、高校の歴史学習においては、近代以降の学習が手薄になるとともに、日本史と世界史の繋がりを意識することの希薄さが、大学まで出てそれなりの地位にあるにもかかわらず、トンデモ論を検証もせずに受け入れる「シニア右翼」(古谷経衡)を量産してしまった背景の一つと考えられます。なお、「全て」でないのは、そこにネットリテラシーの問題も関係するからです。また個人的には、バブル崩壊や会社共同体の変質による経済ナショナリズムの後退など色々な要素が関係しているとも考えますが、ともあれ「公教育の失敗」の代表例であるのは間違いないでしょう。
かかる現象が1990年代半ばから少しづつ顕在化してきたことを踏まえ(「つくる会」的なもの。前掲の小熊風に言えば「癒しのナショナリズム」)、その対応策として歴史総合という科目が遅まきながら必修として近年設置されたのであろう、ということです。
さて、こういった具体的な取り組みが顕在化している中、古典学習はどのような変化をしたのか?していないだろう・・・と追及しているわけですね。
そうした状況への危機感が希薄で具体的な変化に向けた行動もないまま、「古典は役に立たない」論への対応するというような、何とかの一つ覚えのようにカウンターとしての主張しかロクにしないのであれば、DeepLの発達などに関係なく、早々に見切りをつけられても驚くべきことではありません。少なくとも、そういう状態で惰性として古典学習を続けても、ただのアリバイ作り以上の何物にもならないでしょう。
この点、古典学習を重視する人たちは、我々もかつて考察した「ファスト教養」なるものが、社会でそれなりの市民権を得る必然性を理解していないか、少なくとも甘く見ているのだと私は考えます(こういう不見識への苛立ちが、あたかも私が「ファスト教養」側にシンパシーを持っている、と木場さんにはかつて見えていたようですが)。
最後に、これについての一つの喩え話から問題提起をしてこの稿を終えたいと思います(実は木場さんが私の記事内容に反論的なスタンスで返信してきた場合、最初に提示しようと思っていた題材ですが、木場さんが二段目で書いていることとまさにリンクする内容です)。
あなたはある家の子どもだとします。最近家の所得が減り、またあなたは色々やるべきことが増えている状況です。ここであなたは親から「今やっている習い事を減らしなさい」「~は特に役に立ってなさそうだし、少なくとも今やる必要は無いんじゃないの?」と言われています。
問1.
このように親が主張してくるのは不自然なことだと思いますか?
問2.
今後さらに家庭の収入や自身の可処分時間の減少が予測されるとしたら、親の主張は強くなると思いますか?
問3.
問1・問2を踏まえ、どのような行動や論法でいけば、親を説得できる可能性が高くなると思いますか?
【問題はここまで】
なお、これに対して抽象的に解答(「親」に反論)するなら、実はこういう短期的な実利志向が「貧すれば鈍する」に繋がるという合成の誤謬的な問題を指摘することもできるでしょう。
またその具体例として、「工学的な知」と「理学的な知」を挙げ、短期的に結果を出すなら前者に投資した方が良さそうだが、一方で結果に繫がるか不透明な部分も大きい後者のような基礎研究に十分投資していないと、長い目で見た時に社会へ大きなマイナスとなりうる、といった答えが用意しうるように思います。
ただ、そこまで発想するのは別に難しくないのですが、すると古典学習というのはそういう「理学的な知」ほどには他者に対して効果の説明が容易ではない、という理解が生まれ、ゆえになおのことそれを学習することの意義説明や、その達成に向けた具体的取り組みの精錬とその継続は死活問題である、という認識に当然到るものだと私なら考えます。
以上です。