再び古典教育不要論に関して:なぜそれが強く唱えられるようになるのか?

2024-05-26 12:42:16 | ことば関連

 

 

いや~これは素晴らしい動画だわ(最初の「広告」がちょい長すぎな嫌いはあるがw)。私も「道具主義的に教わるものは、役に立つと実感されない限り、否定されるのが当然である」といった記事で、古典教育の文法暗記的な教授法が、今日の「古典は役に立たない」という見解を強めていることなどに触れてきたので、大変興味深く見させてもらった。

 

というか、古典必要派・不要派いずれも、まずこの動画を見て、最低限の議論の前提を確認すべきだと思う。「なぜ議論が噛み合わないのか?」すなわち、「それぞれが求めているものが何なのか?」を踏まえずに主張し合ったところで、ただ時間を空費するだけだからである。

 

さて、内容的には様々な視点から論じることができるが、今回は話題を絞り、「古典教育不要論が今日強く唱えられる必然性」について述べてみたい(他の論点としては、「王朝文学って、要するに『上級国民の同人誌』ですよね?」でも触れたように、「そもそも平安時代の古典を読めたとて、その時代の平民の状況を知らなければ、あたかもタワマンに住んでいる人間だけ見て現代日本人はこういうものだと誤認するがごとき愚昧さを発揮することになる」といった話もあるが、こういった論点はまた別の機会に扱いたい)。

 

この動画においては、古典教育必要派と不要派のそれぞれの立脚点を確認した上で、そもそも現代の(正確に言えば近代以降の)教育が、「国民意識」の涵養を目的としていると述べているのは重要だろう。これだけ聞けば、(特に否定派は)いかにも抽象的で説得力を欠いているように思われるかもしれないが、ここで教育とは「国家的な洗脳」であるという言辞が添えられている点に注意を喚起したい。

 

否定派も肯定せざるを得ない、もしくは肯定したくなるような文言ではなく、あえて「国家的な洗脳」というアレルギーを惹起しそうな言葉をストレートに使っているところに、動画主はかなり醒めた視点でこの議論を俯瞰していると私は捉えているが、近代以降の教育というものが、ナショナリズムを涵養し、優秀な兵士やテクノクラートを養成するための国家プロジェクトとして行われている件については、今更述べるまでもないだろう。この問題に関してはフーコーやアルチュセール、あるいはアンダーソンやホブズホウムなど先行研究の例に暇がなく、むしろ近代国民国家の形成を考える上では大前提とさえ言っていい。

 

要するに、「上の人たち」はそういう点で古典教育にメリットがあると認識していたし、また今でもそういう人間はそれなりにいる、という話である・・・という具合に書けば、その思惑が実際の国民の認識と合致するかは別の話だし、またお偉方のそういう理解がそもそも時代の要請に沿っているのかどうかは議論の余地がある、という突っ込みは当然のように出てくるだろう。

 

そしてこのような理解を踏まえた時、今日において古典教育否定の論調が強くなりこそすれ、弱まることはありえないことが了解されるものと思われる。これについて、動画でも触れられたキーワードを2つ抽出して説明すると次のようになる。

 

キーワード1:経済合理性(が求められる背景)

これには二つの意味があって、一つは今や世界が流動性の高いグローバル社会になっており、ゆえに価値観やアイデンティティの多様化・複雑化が生じた結果、誰しもに強制される公教育においては、誰でも合意しやすい、つまり最大公約数的な要素を人々が求めるのは必然ということ(念のため言っておくが、それと並行して所属の不安が生じ、ルーツ探しや排外主義といった反動も起こる点には注意を喚起しておきたい)。

そしてもう一つは、日本が長期的な経済衰退の傾向にあり、将来の不安を抱えている人が少なくない、ということだ。これはこれで、どの水準を安心・安定ラインとして考えるかで全然話は変わって来るのだが、「流動性の罠」と同じで、完全情報にアクセスできないのはもちろん、専門知識がある訳でもない以上、実態以上に不安を抱える人間が多く出てしまうことは不思議なことではない。そして不安であるがゆえに、目の前のわかりやすい基準に飛びつく、ということで「経済合理性」が求められるのである(これは学歴[社会]への疑念が様々取り沙汰されるにもかかわらず、人々が学歴を求めざるを得ないこととも関連する)。

ここには、幾度となく私が批判してきた自己責任論と、それも関連するゼロリスクを志向する若年層の極端なリスクヘッジ傾向も関係してくるだろう。

要するに、不安に基づき手っ取り早く何かの役に立つものを求める人たちが増えている中で、古典教育の強制というのはあまりに迂遠で厭わしいものと思う人が増加するのは当然のことなのである(「それに唯々諾々と従うのは、疑うことを知らない国家・システムの忠実な犬くらいでは?」とまで言えば言葉がきつすぎるかもしれないが、まあ煎じ詰めるとそういう認識を持っている人が増えるのは、何ら不思議なことではない)。

 

キーワード2:国民意識(とその解体)

古典教育肯定派が国民意識を持ち出したがらない件について、動画では戦前日本への反省という「過去のトラウマ」と分析しており、これは概ね正しいと私は考えるが、そもそもこの観点を持ち出すことで説得力が増すのか?という視点で考えてみる必要があるだろう。

というのも、流動性の高いグローバル社会においては、「嫌ならば別の場所に移ればよい」「嫌なら環境を自分で変えればよい」「道は自分で切り拓くべき」という「自己陶冶と生存競争」の発想を持つ人が多くなるのは必定だからだ。よって日本がダメだと思えば出稼ぎにも行くし、何なら始めから外国の大学に行って海外で就職もする。その中で、「国民意識」とか「古典教育による国民意識の涵養」と言われて、どの程度真摯に受け止めるものか、極めて疑問である(なお、外国人に説明する時にわざわざ原文で説明する必要はなく、むしろその大まかな特徴を現地語でプレゼンする能力の方が他者への情報伝達という点では重要である)。

そしてこの典型的な表れが、先の経済合理性の話ともリンクする「ファスト教養」であって、手っ取り早く役に立つものだけをつまみ食いし、周囲やシステムを「出し抜く」発想であり、このような思考様式が広がる必然性のある環境で、「国民意識の涵養のために古典教育を行うのだ」と訴えて、一体どれだけの人間がその重要性を腹落ちするのか極めて疑問である。

念のために言っておくと、今でもそのような発想に賛同する人はいるだろうし、個人の自由なのでそう勝手に思っていればいいのだが、そう思わない人の割合が増えるのが必然的な環境であり、古典教育を肯定するのならば、その状況をどう受け止め、社会的なレベルで言行に活かすのかが問われている、と申し上げているのである。

ちなみにこの点で反証を準備するなら、グローバルに人材が散らばっていてもある種の同朋意識を持っている華僑やユダヤ人コミュニティなどの特質や強みを精緻に分析し、国民意識(正確には同朋意識)を持っていることとグローバリゼーションの両立可能性とそのメリットを示すなどの必要がある(ただ当たり前のこととして、なぜその依り代が古典教育でなければならないのか?という疑念は当然浮かんでくるわけだが)。でなければ、経済合理性で近視眼的になった人々や、グローバリスト的な人々を「国民意識」なる言葉で説得するなど、へそで茶を沸かすようなものである。

 

以上二つのキーワードを軸に、「古典教育不要論が今日強く唱えられる必然性」について述べてみた。繰り返しになるが、社会の変化を踏まえると、経済合理性の希求・国民意識の解体ともその傾向が強まっていくのは必然的なことであり、ゆえにそれらと相反する古典教育が、不要の誹りを強く受けるようになるのも当然のことと言えよう。

 

よって、学校における古典教育(の強制)を擁護したいのならば、最低限この状況を踏まえた上で、(今後増えつづけるであろう)不要論者にも伝わるように話を構築しなければ、その主張に有効性が感じられることはないだろう(まさしく「それってあなたの感想ですよね?」で話が終わる。そして価値観の多様化・複雑化が進んでいる以上、そういった個人的な感想や趣味を公的空間で強制される謂れはない、と感じる人間が多くなるのは当然だろう)。そしてせいぜい、同じ感想を持つお友達界隈で傷をなめ合うことになるのが「おち」である。

 

さらに言えば、危機感を持つことなくこれまで通りの教授法により惰性で続けられる古典教育は、その目的を達成することなく自動機械のように垂れ流されるわけで、それはますます古典教育不要論者を世に増やし続けることになるだろうと私は思うのである。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-05-31 20:29:06
小難しく考えんと教師のレベルが低いでええんちゃう?
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Unknown (ゴルゴン)
2024-06-01 23:30:08
コメントありがとうございます。


>「教師のレベルが低いでええんちゃう?」
まあそういう見方もできるでしょう(笑)。
ただ、その場合は「何と比べて低いのか?」という基準を明示する説明責任があるように思われます。


例えば「古典教育の意義」として語られるものが単なる自己保身のためのお題目であり、実際のところは「昔の文章を教えていればそれでいい」という意識で多くの職業教師が授業を行っているのであれば、文法を淡々と教え、古文の価値を理解してもらうどころか、むしろそれに忌避感を持つ人間を量産していたとしても、その教師は「正しいレベルにある」と言えるのですから。


要するに問題なのは、古典教育を必要とする人々のほとんどが、実に有難くも高邁な理屈を並べ立てながら、実態が理念と大きく乖離していることも深く理解せず、ゆえにそれを真摯に改善しようともせず、そしてそのザマが厳しく批判されるのは当然ということも理解していない、ということです。


まあおそらくは、そんな頽落した古典教育は元々の理念を達成することは全くできないか、あるいは極めて無様なものとしてこれからどんどん排除されていくかするでしょうが、「愚か者死すべし」という観点に立つなら、いずれにしてもその愚昧で堕落した内実に相応しい最期であるように私には思えますね(それに付き合わされる生徒は悲劇的だと同情しますが)。


乱文・乱筆失礼いたしました。
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