イイハナシダナー・・・まあ現状のシステムについて自覚的になって行動しなきゃ、一生地獄の底にいるだけで終わりだぜってのは正論やな。というわけで動画そのものの内容は大変おもしろかった(これ以外の動画でも、就活に向けてやるべきことや心構えがかなり懇切丁寧に書かれていて、単なる精神論や自己責任論とは大きく違うと感じた)。
それを踏まえた上で一般的な状況(言論の趨勢)について思ったことをつらつら書いてみる。
裏事情を知っての現状最適化だけやってると、大元のシステムが終わっている時には、やはり一緒に奈落の底に落ちるだけって話もあるが(まあそうなった時のために日本を出ても大丈夫なようにしておく、ってのもリスクヘッジの一つ)。たとえばそもそも何で就活の時期にホンネとタテマエ、はっきり言えば欺瞞がまかり通っているのか?一個人が考えたところで変わらない=ムダゆえにそんなことにかかずらっている暇はない、という意見はわかる。政治家でも官僚でも経団連の偉い人でもないんだし。でも、そういう意識の集合が結局問題を温存し続けるんじゃあないか?
「調べるのも自己責任」って話だけど、あえて単純化して比べてみよう。
1
そのスタイルで社会を運用した結果、失敗するヤツがいっぱい出て、セーフティネットのコストがえらいかかってしまった。そういった「落伍者」たちの大半は餓死や自殺するなどしてゼロサムゲームかと思いきや、そんなことにもならず、結果的に今までより国家の支出が増え続けていた。
2
小さい頃から社会の仕組みに関する実態をバンバン情報リークして知らしめ、無知による失敗の数を減らす。情報の流通には面倒さもあるし多少のコストもかかるが、結果的に就職などが上手くいくケースが増え、「落伍者」たちを包摂するための福祉などの諸費用が減り、結果的に1のケースよりマイナスは少なかった。
というのはどちらが取るべき方針ですかね?
もちろん「二項対立は単純化しすぎ」って指摘はあるだろうが、ここで俺が言いたいのは、もし仮に社会的により多くの損失を伴うにもかかわらず自己責任(この場合は「個人に任せる」)が妥当だと考えるなら、それはただの個人的信念ないしはその集合体であり、もっと言えば宗教的ですらある、て話(わかりやすく言い換えれば、合理的・戦略的思考ではない)。あるいは「包摂=福祉のことを考えるからコストが気になるのであって、ドロップアウトした奴らは死ぬに任せておけばいい=現行のセーフティネットを縮小すれば、無問題」とか言う人間もいるかもしれんが、この人手不足の(+労働人口が減少していく)社会でそんな発言するのは、思い切りがいいんじゃなくてむしろ思考が短絡的で甘っちょろいだけでしょ(ちなみに今の人手不足は、就職氷河期で新卒を取らなかったという過去があり、団塊の世代がどんどんリタイアした結果必然的にそうなってる、という話でこれはどこまで自己責任なんすかね?)。
「国として、コミュニティとして、どっちの方向性でいくのが社会がサステナブルなものになるか?」っていうのが公共的な議論なんじゃないのかね?そう考えると、しばしば見られる議論が、
自分で何とかできて当たり前やろという「自己責任」派
VS
可愛そうな人たちを助けましょうという「弱者救済」派
みたいな対立になってて、毎回アホちゃうんかと思ってしまうのだが。なぜって、自分はこんなに苦労してるのに努力してね―奴が救済されて許せん(自分の不全感)とか日本が沈む(社会への不安)とか気になるんやったら、どうしたら社会的コストを縮減できるかって視点で議論をすべきじゃあないの?だって結局ドロップアウト組が増えて社会的コスト増えたら、そこに税金は投入されるわけですぜ。だったらドロップアウトが減るようにシステム構築した方が、マイナスは少ないんじゃない?というわけでコスト計算やその上での議論になるんだったらわかるんだけどねえ(端的に言うと、ドロップアウトした人のためというよりむしろ、自分自身のためにも全体的なことを考えるべきでは?ということ。まあもっとも、「弱者救済=自分の取り分が減らされる」といった単純なゼロサムゲームに頭が支配されていたら、望むべくもないが)。
こういう頭の悪い対立構造を見ていると、「戦後教育は国を大事にする心を否定し破壊した」的な意見を見ることがあるが、なるほど確かにその通りかもね、と皮肉を込めて思う。なぜなら、国のために弱者は邪魔だという人間たちの議論にさえも、今述べたようなリベラル・ナショナリズム的視点が欠落してるのだから。まあ福祉国家が1970年代に限界を迎えてネオコンが登場(福祉の削減→小さな政府)、グローバル化の後で中間層が崩壊して社会不安の増大と犯人探し(移民排斥やブレグジット、トランプ現象)、といった先進国あるあるの一貫なので、特殊日本論はミスリーディングだけども、と一応注釈はつけておくが。
かつては、学生もサラリーマンも、社会がどう回っているかについて無知でも、(不満は忍従しつつ)システムに乗っかっていれば大きな破綻なく生きられた時代があった(実際自分の給与明細をまじまじ見て保険料とかをちゃんと計算していた特に40代以上の人ってどれくらいいるんだろうか?)。だから、「四の五の言わずレールに乗っかれ」だったし、ドロップアウト組に厳しいのもまあむべなるかなというものであった。しかし、そんな時代はもう終わりを告げている。だったら、フィンランドじゃないが、教育などにテコ入れして現状の社会システムを理解させないと、防げたかもしれないドロップアウト組が増えていって、ますます少子高齢化社会と生産年齢人口減少の中で首の締まりが早くなるだけだと思うんだけど、どうなんすかね?と自己責任論者の方々には聞きたいところである(オレはいざとなったら日本脱出できるくらいの貯蓄と社会資本があるんで別に大丈夫っす!とった計算をしてるならまだわかるが、そんな人どれだけいるの?)。
それとも、外国人技能実習制度やめて正式に移民をガンガン入れます?あるいは世界的に地位が低下している(予算も削られてる)理系に力を入れてシンギュラリティの一発逆転に将来をかけますか?まあそこまで考えて、どうせ将来は大量に労働力が不要になんだからここ趨十年の(特に単純)労働力確保なんて、それこそ近視眼的思考でムダだ!なんて緻密な計算の上で喝破し、もって雇用システムとか予算のつけ方とかを議論し始めるってーのならありだと思うがね、と書きつつこの稿を終えたい。
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