「自由意思」の奴隷

2018-08-31 12:20:13 | 中部・東海旅行

下田のホテルから見る渚は格別だな・・・というわけで一階に降りて散歩してみることにした。

 

 

最初は文筆家の避暑地ってイメージが強かったけど、こうしてみると殺人現場の雰囲気もあるな(物騒)。これが崖で片平な〇さと船〇英一郎がいたら完璧なんだがw

 

そういや、ホテルの部屋から見た時は「朝もやの渚」が連想されたけども、映画の「渚にて」では、核戦争の後で豪州に逃げて生き延びようとせず、故郷とともに死ぬ意思を示す大勢の人が出てくるよな。色々捉え方はあると思うけど、しかし人の最期のあり方として起こりうる行動の一つであるのは間違いない。特に、迫りくるものが巨大で対処しがたいと思えれば思えるほど、だ。そのことは3.11の津波の時の対応・反応を見れば明らかである。

 

これに反発する気持ちを持つのはわかるが、あたかも人間が描けていないかのような評価をするのは全くのお角違いというか自らの無知をさらけ出すようなものだ。なぜなら、実際過去の事例を見れば、「どんな場合でも助かろうと最後まで足掻く」なんてことを人間はしないのだから。そこに反射的に違和感を持つのは「アルマゲドン」的な描き方に毒されているか、「人間は死に際して全力であがくものである・あがくべきである」という思い込みやイデオロギーに支配されているかのどちらかだろう(念のため言っておくが、個人的な嗜好でどうしたいかというのと、人間のパターンの実態は別の話である。それが区別できないのは、端的に言って現代文の問題に対する時、自分の感想・主観を軸に問題を解こうとするのと似ていて、少なくとも科学的態度では全くない)。

 

そういう一面的な人間理解は、どこかこの国でよくみられる「自己責任論」の大合唱を私に連想させる(ただしそこには、被害者に突っ込みどころを見つけることで自己と無関連化=同情しない根拠探しをしてる側面もあるだろう)。その根底にあるのは、誤解を恐れずに言えば、「人間はいかなる時でもreasonableな判断ができるし、またすべきであるという信仰のようなもの」である。しかし、自身やその周囲のこれまでの行動をつぶさに思い起こしてみれば、一体どれだけの非合理的あるいは軽率な思考・行動・言動をしてきたことか、容易に思い描けるはずである。さらに言えば、歴史的事例であったり(例:合理的で賢明な判断が偶然によって脆くも失敗する)、オイディプスの破滅や「カラマーゾフの兄弟」の裁判といった著名な作品の教えるところでは、そも合理・論理を積み重ねたら物事が上手くいくどころか、真逆の結末に終わることだってあるのだ。

 

人間は脆弱である。平時でも容易に非合理的な判断をするし、下手をするとそれを理屈で正当化して「しょうがなかったこと」にしてしまう(今日では行動経済学などでその様式が理論化もされてきているので、これは単なる印象論・経験論ではない)。ましてや、極限状況に陥って視野狭窄になっていれば、普段は考えつかないことを平気でやったり、あるいは逆に何もできずにただ立ち尽くしてしまうのである(これは拷問の手法と自白テクニック、あるいは宗教の洗脳プロセスがわかりやすいが、他にも極限的飢餓や低血糖値による異常行動、肉体の酷使による精神的・肉体的疲労の先の非合理的判断など枚挙に暇がない。ちなみに、これがわかってないと「レイプ犯などにも立ち向かえるはず=頑強に抵抗しなかったのだから受け入れたんだろう?」などと平気で勘違い発言をしてしまうことになる。ならあなたはガタイのいいヤクザに絡まれたらそれに泰然と向き合えるんやな?仮にそれをできなくて勢いに飲まれたら、それは相手の要求を受け容れたってことでいいんだな?と思考実験してみるといい)。

 

そもそも、たとえば被害者というか困っている人の事例に関するネットの書き込みなどを見ていると、次のような感慨を抱かずにはいられない。すなわち、「これを総合していると、学業・就職・結婚・労基法・住宅購入・教育・保険・相続・闘病といった分野に精通した人間であるべきだって話になりそうだけど、そんな人間一体どこの世界にいるのかね?」と。まあ特定の分野に詳しい人間がその分野について突っ込みを入れ、他の分野については別の人間が・・・てのを繰り返してるとこうなるんだろうが、まあ非現実的この上無いって話である(そもそも匿名で責任も取らなくていい状態で好き勝手書いてる連中の言葉を真に受ける必要なんてない、というメンタリティもまあ持っていた方がいいとは思うけど)。仮に自分自身が賢明に立ち回ろうと努力したところで、家族が事故を起こして一瞬にして平穏な日常が吹き飛ぶことだってあるし、生まれた子どもが障碍を持っていて生活プランが大きく変わることもある。順調に成長していると思っていた子どもが引きこもってしまい、老後のプランが崩れ去ってしまい追い詰められていくことだってあるだろう。

 

要は、「普通」とか「日常」と言われてるものなんて様々な要素でもろくも崩れ去る砂上の楼閣にすぎない(戦争を経験した世代はともかく、団塊の世代などはそうじゃないと思えた時代を生きてきたから、それがまたディスコミュニケーションの要因になって面倒なんだけどね)。だから、ドロップアウトしないよう自分にも家族にも必死になったりするというマインドはわかるけど、ここまでもう流動性の高い社会になってしまったんだから、むしろセーフティネットに関する意識の変革とその周知をして支え合う方が、よほどサステナブルな社会になると思うんだけどね(そういったことで全員が助けられるとか、また助けられるべきとは思わないが、少なくとも今の社会の意識面・システム面のハードル設定が高すぎるのでは?と思う)。ちなみに、だったらいっそ昔ながらの家族形態と雇用システム(流動性の低い社会)に戻してしまえばいいんじゃないか?なんて意見が出るかもしれないが、

ここまで人手不足になった状況がさらに悪化するのにどう対応するか?

現在の賃金水準並びに生涯に必要な資金を考えると一人で家族を養うのに相当の所得が必要なんだけど、しばらくは内需の減少に苦しみ続ける中でどれだけの企業がそれを支払えるのか?

といった現実的問題がある以上、基本的に性質の悪い妄想の域を出ない話だ(後者については、今の経済状況で会社の賃金が劇的に上がることはないので、たとえば親の不動産からの不労収入みたいなマルチインカムがなければ、クリアできるのは一握りですわい。今の日本って副業にも厳しいからね)。

 

生き残らなきゃ的強迫観念が強すぎるためか、精神的余裕が無くて同情したら自分たちの取り分が減る=「同情したら負け」みたいな感覚に支配されてるような感じがするが、結局自分もいつ「そっち側」にいくかわからない。だったらセーフティネットをしっかりしといた方が最終的にいいと思うんだけどねえ・・・

 

なんてことを下田の渚で妄想しながらもうちょっと先まで歩いてみることにした。


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