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ひぐらしPS2版のプロローグに関する問題点

2007-10-28 02:22:53 | ひぐらし
PS2版において、圭一を主人公にした場合のプロローグは「羽入が謝る」という内容で共通している(要は鬼編ので共通している)。ということは、綿編や祟編も症候群の予備軍になっていると考えてよい(正確には「L3あたりまで症状が進んでいる」といったあたりか)。原作と違い、このような共通したプロローグを採用するメリットは何だろうか?もっとも大きいのは、以前疑問を呈した祟編の圭一の暴走の説明がつく、ということだろう。しかし一方で、綿編であれだけ脅されても症候群が進まないのは必然性に欠けるのではないだろうか。


もっとも、この点に関してのみなら例えば次のような反論が可能である。「周りを誰も信用できなくなる鬼隠し編・祟殺し編と、共犯でもある詩音が味方にいる綿流し編では疑心暗鬼の強さという点で大きく違うのではないか?」と。詩音が詩音でないのに気付く時にはすでにレナが圭一の理解者(?)として詩音の位置を占めるようになっていることも考えると、なるほどその反論も一理ある。しかし実は、このプロローグを共通のものとはできない本質的な理由が存在するのだ。


プロローグでは羽入が謝っているわけだが、そもそもなぜ羽入は謝っていたのだろうか?(皆編だか祭編だか忘れたが)原作において「鬼隠し編では葬式のためにちょっと雛身沢を離れただけで症候群が発症」したのであり、そんな短期間の東京行きによって「天文学的確率」で発症したために、羽入は謝り続けたのだと書かれている。これは鬼隠し編のカケラについて説明するシーンだったと記憶しているが、他の編ではこの謝罪の話は一切ない。その時点で(雛身沢に帰る際の)圭一への謝罪は鬼編に特化したものだと考えられるから、共通のプロローグにすることは無茶なのである。


なるほど盥編であれば、間宮リナを登場させるなど後の編に繋がる要素を一通り出しておこうという主旨があるから、羽入の謝罪が出てくるのもその一環として理解できる。しかしながら、この「天文学的確率」に基づいたプロローグを綿編や祟編にまでも共通したものとするのは「例外中の例外こそ本道」と強弁するに等しい(※)。自分で「天文学的確率」と言っているのだから、鬼編は固定し、次は綿編or祟編で二択にしてプロローグを変えるなどの工夫をすべきだったと言えるだろう。



なお、圭一が雛身沢に来る確率は非常に高いらしく、それ自体を例外とすることはできない。「圭一が2、3回来ないことがあり、その世界はとてもつまらなかった」などと梨花自身が皆編(か祭編)で述懐している。

※2
ちなみに天文学的確率というのが梨花の発言であることを利用し、「実は可能性が低くない出来事」と強弁する人がいるかもしれない(梨花は全ての可能性を見たわけではないし)。しかしそれは、ひたすら内容を正当化するだけの弁でしかない。そんなややこしい事をするくらいなら、最初から「天文学的確率」などと書かなければよいのである。まあ何にしても、天文学的確率での発症に対して謝罪するわけだから、共通のプロローグに相応しくないことに変わりはない。

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