なぜ同じ現代日本語同士なのに話が全く通じないのか:あるいは認知バイアス・スキーマと、それを踏まえた仕組みんついて

2024-11-09 14:21:46 | ことば関連

 

 

「現代日本語の文章を読んでいても、その内容を理解できている人は一体どれだけいるのだろうか?」

 

この問いに対しては、「ちゃんとした教育を受けてきた人間なら誰しも理解できて当然だ」くらいの認識がまかり通ってきたが(今でもそう思っている人間は多そうだ)、ネットとその普及はその(共同)幻想を破壊した。

 

すなわち、別に難解な用語を使ってもいないのに、なぜか特定の言葉にだけ反応して妙な曲解をしてくる人間は大勢いるし、しかもそれに対して同じ文中の根拠を示して説明・反論しても、アクロバティックな飛躍をくり返しながら自らの説に固執する人間なども山ほどいる、という事実が可視化されたということだ(勘のいい読者はお気づきのことと思うが、ジョナサン・ハイトも『社会はなぜ左と右にわかれるのかー対立を超えるための道徳心理学』で指摘しているように、論理以外のものが主張や言説の理解に大きく影響を与えていることがわかる)。

 

で、今回は「現代国語」と「論理」という観点で説明されており、それはそれで「当たり前と思っていることが実は全く共有されない」という気付きにもなるので重要なのだが、この手の話題を論じる時に気を付けるべきことは、「ホントわからないバカが多くて困るわ~」という嘲笑・侮蔑や、良くても「理解できない『弱者』のことも配慮してあげましょうね」といった話になりがちな点だ。

 

これは「ごんぎつね」を理解できない小学生たちの話や、それについて私が批判的に取り上げたサトマイの動画はその典型例だが、宗慶二の場合は、同じ問題に関し、書かれた当時の世界観(日常生活とコモンセンス)と今の小学生の世界観の違いを念頭に置いて解釈の落差が生じるのは当然だと批判的に言及していただけに、今回も「そもそも論理なるものが万能であるかのように認識されていることの危うさ」をきちんと指摘している(ゆる言語学ラジオで「それが論理的なのはあなたの国だけです」という動画があり、プラグマティズムの事例などに言及していたが、これも「論理」というものを考え直す契機にになるだろう)。

 

で、実はこの問題とも深く関わるのが、以前紹介した今井むつみの『算数文章題が解けない子どもたち』『「何度説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』の二つである。なるほど「通じない」とか「できない」のはいい。しかしそのことを、単に見下しの道具とするのではなく、一般的問題として現象の要因を分析し、対応策を構築することが、社会的・公共的態度ではないか、ということだ(実際、前掲の『算数文章題~』での知見を活かしつつ書かれた新書の題名は、『学力喪失:認知科学による回復への道筋』となっている)。

 

というのも、「人間の非合理性に関する合理的説明」の記事でも述べたことと繋がるが、今回の問題は認知科学やそれに基づいた認知的不協和理論、行動経済学など人間一般に関わる領域だからだ。

 

今日の世界は、啓蒙思想や市民革命(言い換えれば「近代」)の時代に信じられていた「人間=理性的動物」という神話が、後期近代(成熟社会と価値観の多様化・複雑化)となって崩壊ないし訂正される状況を迎えている(前者から生まれたのが古典派経済学なのに対し、後者から生まれたのが行動経済学であり、両者の差異は人間理解の変化に基づいている)。こういった状況を踏まえると、今回のテーマも「現代日本語できちんと論理立てて話しているのに、同じ日本人に通じないことがしばしばある」という現象から「わかんねーバカが沢山いる」という侮蔑・嘲笑に短絡させるのではなく、今日の社会状況や仕組みが生み出した一つの必然的帰結として捉えるべきだろう(これはメリトクラシーのデメリットにも繋がる話なのだが、そこまで広げると収集がつかなくなるので今回は触れない)。

 

そしてそこに問題意識を持っているのなら、例えば前述した今井むつみのような構造解析と対策の提案というアプローチが求められるのではないだろうか(なお、念のため言っておくと、「話せばわかる」という世界理解は幻想であって、「話してもわからない・わかりあえない人間は普通に存在するものだ」という構えを前提にすべきということも、付け加えておきたい)。

 

ちなみにこれは単に今の話に限ったことではない。おそらく今後価値観の多様化と複雑化、それに伴う分断はますます進んでいくと思われるので、それへの対策=共生の作法の準備として、今から知見を深めておく必要がある。さらに言えば、人対人だけでなく、AIが情報発信のツールとしてさらに広がっていくことはほぼ確実なので、その際にどういうリスクや事前対策が必要なのかを把握する上でも、人間のバイアスや錯覚の傾向分析を積み上げておくことは社会の運営上不可欠となる(これは陰謀論の跳梁跋扈への対策などにも言えることだ)。

 

といったことを考えるきっかけとして、今回の動画は有用だったので、紹介してみた次第。

 

・・・あれ、今回はこの動画を元に「今の公教育における古典の学習がなぜ不毛の産物に成り下がっているのか?」という話を(再度)伊勢物語の世界観(当時の貴族の地理感覚)の話を用いてさらに深めるはずだったのだが・・・ま、機械じゃない人間がやってると、こういうアドホックな変化が生じるってことで、ここはそのまま締めることとしたい(・∀・)


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