隠岐の碧風館で後醍醐の足跡を見る

2025-03-11 12:18:14 | 離島旅行

 

 

焼火神社で二度目の死(比喩)を経験した俺に、恐れるものなどあろうか、いやない!

 

とか言いながら、摩天蓋に行くまでにもう少し風雨が落ち着かないか様子をみるため、別府港近くの碧風館まで戻って来たわけでございますが(ヘタレ)w

 

この資料館は後醍醐が隠岐を脱出するまでの足跡を展示しているが、ここを見学する前に、まずは付近の史跡を見ておきやしょう。

 

 

 

 

 

 

皮を剥いでいない木を自然に近い状態として「黒木」と呼よぶが、要するにそういう木で作られた戦時や政変時などにおける臨時の御所である。宇田源氏の後裔、つまり六角タンの(色々な意味で)遠いご先祖がしつらえたものらしい(・∀・)

 

 

 

 

神社なんだけど、なんか道教風でない?元からこんな風だったのかしらね?

 

 

 

 

で、そこから少し歩くと、御所址に到着。台風により建物が倒壊してしまったため、囲いだけが新設された次第。

 

うーん、まあ自然災害じゃしょうがないね。

 

 

 

 

 

 

下に戻ると鳥居を発見。このアングルなかなかおもしろいなあと一枚撮り、碧風館に移動。

 

入口で受付の方に挨拶をして中へ入る。ありがたいことに、展示物の説明までしていただけるらしい。

 

 

 

 

 

 

こちらが後醍醐の辿った軌跡。武将ならともかく、天皇でこれほどダイナミックに移動してる例はそうそうないんじゃないか(御幸「解せぬ・・・」)。

 

 

 

 

 

 

脱出の相談をする密会の様子を描いた絵を前にあれこれ説明を聞く。

 

 

 

 

後醍醐と言えば、かつて網野善彦が『異形の王権』で著したように、朝廷へ権力を取り戻さんとする強烈なパーソナリティーを持った一種逸脱的存在とみなされるか、はたまた皇国史観からイデオロギー的に称揚されるという言わば両極に評価の分かれる人物だった(ここでは平泉澄などが思い出されるところだ)。

 

しかしながら、諸々の研究が進んでいく中で、彼が登場した時代的必然、すなわち元寇後に鎌倉幕府が西国の武士まで支配を広げた(広げざるをえなくなった)結果、キャパオーバーで土地関連の係争などの処理が追い付かなくなり、土地と面子をその拠り所とする武士は、自身の所有権にお墨付きを与えてくれる別の権威を必要とするようになった。

 

そこで呼び出されたのが、天皇・上皇って存在だったわけやな。彼らに利用価値があったから、助けを求めてすり寄ったり、あるいはそれを担ぎ上げる勢力にも与同するって訳で、そういうプラクティカルな判断を無視して、天皇の威光に平伏したのだというような、ある種近代以降の天皇観(現人神と「しらす」)を当時の武士たちに重ね合わせるのは、いかにもありがちな錯誤だと言えるだろう。

 

ちなみに武士のメンタリティを例えば近世に著された『葉隠』的なものに代表させるのは大きな間違いで、中世武士のレゾンデートルは土地と面子であり、それを守るためには裏切りなども辞さなかった。武士の行動原理を近代に創造された「武士道」的なものに求めると、例えば戦国時代は極めて特異な時代に見えがちだが、中世武士の観念からすれば、むしろ戦国時代における武士の振る舞い方の方が自然であるとすら言える。それが応仁の乱や明応の政変による足利将軍家の衰退、そして足利義輝による家柄を度外視した職位濫発などにより秩序の流動化が進んだ結果、中世武士的エートスが全面化したのが戦国時代だったと表現するのがむしろ適切ではないだろうか。

 

で、天皇・上皇の側としても、政治にいっそうコミットせざるをえなくなった以上、そこでの振る舞い方や自身の行動原理も変化させざるをえず、その一つの結実が建武の親政とそれに向けた一連の流れだったと言える。よって、後醍醐が単に自身や朝廷へ権力を集中せんとする特異なパーソナリティを持っていた、とするのはいささか極端な見方ということになる(後醍醐が自身の「中継ぎ」としての立場を終えたらお役御免という状況に抗うため、後継者の選出含め爪痕を残そうとしていたことは事実であり、その意味で彼自身の個性や個人的背景が全く関係ない、というのもまた極論だが)。

 

話を戻すと、こういう武士にとっては土地の権利保障の問題が絡むから、鎌倉幕府と後醍醐のどっちが俺の土地を保証してくれるんや?て色々なヤツが思っているところに、すでに幕府と戦闘を始めていた後醍醐の側から「俺たちの勢力を助けてくれたら土地保証するで~」てな感じの綸旨が回ってきた(ばら撒かれた)結果、「うーん、保証書もあるならワイもそっちにつくか~。幕府に任せとっても、あの人ら忙しくて話進まんうちに、いつ俺の土地が実力行使で持って逝かれるかわからんしな・・・」的な感じで、ドミノ倒しのように風向きが変わっていきましたよと(もちろん、天皇へのロイヤリティが高い武士もいた訳で、その辺グラデーションはもちろんあるのだが。楠木正成にまつわる伝承なんかは、そのパターンも含めていずれ取り上げてみたいところ)。

 

このようにして、鎌倉幕府は滅んでしまった訳だが、それは壇ノ浦の合戦であったり、関ケ原の戦いみたいなわかりやすい決着イベント(トップ同士の大きな戦い)もない上、当時の鎌倉幕府は影響の及ぶ領域で言えば過去最大であったから、何でいきなり滅んでんの?という感じに研究者ですら感じる状況だった。ゆえに、細川重男『鎌倉幕府の滅亡』のような研究書が出されたりもしているワケだ。

 

以上回想終わり(・∀・)

 

 

 

 

ちなみに絵の場面解説などはもちろんだが、自分が東京から来たことを伝えると、こちらに晴海の方から後醍醐の脱出に助力した有力者の末裔という人が来た、みたいな話も聞けておもしろかった。

 

また、解説してくれた方はこちらに移住してきたとのことで、こちらでの仕事の話や、あるいは人口減少と学校の統合などについてもお話を聞くことができた。

 

本やネットでアピールされている内容って、当然現地が望むポジティブな状況に偏りがちだが、昨日みつけ島荘で聞いた減便とその影響のように、実態としてはネガティブな要素も様々ある。現地の人たちとの会話を通じてそれを知れるというのは大変興味深いことだった。

 

最後に、昼食として近くのベーカリーを勧めてもらったので、その開店まで付近の史跡をもう少し見て回ることに決め、碧風館を後にした。

 

 

なお、当館では文書の展示もあるので最後にご紹介しつつ、この稿を終えたい。

 

 

 

 

 

 


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