「投資は自己責任なんだから騙された方が悪い」という意見はしばしば見かける。本質的にリバタリアンな俺としても、そう言いたい心情は理解できる。しかしながら、こういったことが組織的に行われ、大きな被害を出しているのは、果たして「自己責任」などという言葉で片付くものなのだろうか?
たとえば、このような詐欺を通じて本来は購買力のある中間層がストックを無くし、モノを買わなくなったらどうなる?いや、その人たち自身が経済にさほど貢献しないとしても、その遺産の一部は相続税として国庫に入って我らの生活を支える礎となり、また一部は相続人の財産としてその購買力をやはり支えるかもしれないのだ。
このような可能性を持つ財産が溶け、たとえば仮にアンダークラスへと没落した人々が大挙して生活保護を申請したらどうなるだろう?特にそれが老人であれば、医療費がかさんで結構な国家財政へのダメージとなる可能性が高い(それとも、「自分の財産をすり減らした人々は、みな自主的に死を選ぶためコストに直結しない」みたいな、聞いたこともない統計データでも自己責任論者たちは持っているのだろうか??)。
だとするなら、投資詐欺は自己責任などという領域で止めるべき話ではないだろう。なるほど、社会正義のためとか弱者のためとかいう言説を聞けば、「いやいやそんなん本人が悪いんじゃん」と思って反発するのかもしれない。しかし幸か不幸か、我々が生きる地面は繋がっているのである。
たとえば仮に、今の十代が全く子どもを作らなかったとしたら、日本社会はおそらく終わるだろう(アンチエイジングの技術が完成して不老を手に入れる人の割合が相当数増えない限りはね)。それは二十代や三十代にとっては他人であり、また子どもを作らなければその人の将来のリスクに繋がりうるという意味では自己責任という言い方はできるかもしれない。しかし、その行動と帰結が個人の領域で済まないことは明白であり、ゆえにそういう事柄を自己責任の言葉・領域に押し込めるのは単なる思考停止・否認以外の何物でもない(まあもっとも、今既に日本の外に住んでるとか、いつでも移住できる人たちにとっては、はっきり言ってどっちでもいいだろうね、とは思うが)。
そのような社会的繋がり(コミュニタリズム)の側面に思いを致せば、先の投資詐欺についても単なる自己責任論で終わらせるのはただのnarrow mindであると言うべきであろう。
ってゆうような、いつもの自己責任論批判の文脈で参考になる動画であったので、転載させていただいた次第であります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます