『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだのは割と最近のことだが、完全に自国(日本)のことを見ている心持ちになった。
もちろん、徴兵制やら出産に関する事情(男子じゃなければ中絶さえする)は現状の日本と異なる(なお、差異に関する象徴的な案件として、ジヨンが生まれる直前の1980年には韓国で民主化運動を弾圧した光州事件が起こっていた)。しかし、たとえば就職差別のシーンは、医学部入試の問題であったり、都立高校の募集が男女別になっていたりと、今頃になってようやく歪なシステムが明るみに出た我が国の体たらく(=システムが差別を許容するものとなっている)を想起させるものである。ちなみに、いやそもそも女性が社会に進出すると出生率が下がって云々といったことを考えている人は、そもそも女性が社会に進出しないともう回らない社会になっていることを理解しているのだろうか、と思う。
さて、この作品が優れている(ないし興味をひく)点はいくつもあるが、その一つがミラーリングがある。具体的に言うと、作中では女性は名前で呼ばれるのに対し、男性は一部の例外を除いて「父親」・「弟」といった具合に立場や関係性でしか呼ばれない。これは、今まで女性がそのように言及されてきたことをひっくり返した記載をすることで、女性がどのような立場に置かれてきたのかをより理解されやすくする演出である(なお、こう聞いてあまりピンと来ない方や、いやそれ被害妄想でしょと思う方は、日本だと古くは「菅原孝標女」であったり、最近では「~ちゃんのママ」といった事例を想起するといいだろう)。
また興味深いのは、話を叙情的に表現してはいない、ということだ。具体的に言えば、「患者のカルテ」という体もあって、ドキュメンタリーのように数字や状況が比較的淡々と語られている。これがいわゆる「女性は感情的な生き物である」といったステレオタイプを意識してなのかはわからないが、こういった描き方をすることで一般的状況・傾向を表すことには十分成功しているように思われる(なお、ドキュメンタリーチックだから冷たい印象を受ける描き方かと言うと、そういう風でもない。おそらくその理由は、冒頭の主人公の様子を踏まえての描写なので、そういう環境が人間をどのように追い詰め、狂気へと陥らせるかを前提として読むことになるからではないか。また、それ以上に厳しい境遇だったジヨンの母親オ・ミスクのエピソードと快活さがある種バランスを取るものとなっている部分もあるだろう)。
なお、私が一寸余計な部分(=反発する側の付け入る隙)と思ったのは、主人公が自分の陰口を聞いてしまう場面である。私は例えば「中古」という言い方は失礼極まりないと思うし、処女をありがたいものとする風潮には嫌悪感しかない(しかもそれを「純愛」とか「純情」などと正当化する向きに至っては、吐き気すら催す)。とはいえ、そのような考え方の人間を死滅させることは不可能であろうし、またここが最も重要なところだが、人間の社会的発言(ネットを含む)はともかく、内面に対して一定の方向性を強制すのは不可能である(まあ薬物とか拷問を使えば別、という留保をつけるが)。それはポリコレとバックラッシュとしてのトランプ現象を見るまでもなく、十分理解できるはずなのだが。
ゆえに、そもそもジヨンが途中で聞いてしまう陰口の類を無くすことはできない。そして、私が何よりこの描写で残念なのは、「いやいやそういう値踏みとか価値判断による切り捨てなんてお前ら女もいくらでもやってるじゃん」と恰好の口実を反発する人間に与えてしまうシーンだと思ったことだ(ここで重要なのは、それを軸に反発する人間の根底には、単純に女性からの告発に対する反感がある場合も想定しうるということだ)。言ってることそのものは正当性があるのだから、もうちょっと別の描き方はなかったのだろうか、と非常に残念に感じた場面であった(ちなみにこれをやや過激な方向にミラーリングすると、「生殖能力を失った男性は価値がない」と陰口を言われる描写になる)。
またもう一つ思うのは、この作品に対する反応に限らないが、「不満を訴える側は、純然たる正義ではない」という当たり前のことである。訴える側の瑕疵を指摘することで、あたかも訴えそのものが全体的に不当であるかのように言う、あるいはそう印象付けようとする言説が見られるが、それは弱者=聖者のような捉え方が不健全なのと同じ程度には不健全で非生産的である(ここでは、差別される存在が時に聖なるものとして、時に穢れたものとして両極の立ち位置を与えられてきたことを想起するのがよいだろう)。
当然、男性側からの異議申し立てもあるだろう。「平等であるなら、どうして男性だけが徴兵されるのか」、「徴兵期間によるビハインドを男性は背負って就活などもやってるんだ」、「男性が女性におごるべきという風潮はおかしい」、「レディーファーストもいらんやろ」とかね。そういったものはどんどんすればよろしい(ただし、ここが難しいところだが、既存のシステムを最大限に活用していこうという一部の女性にとって、これら「既得権益」を手放したくないという意見もあるだろう。「女性」だからといって一枚岩ではないのだ)。
最後に、「82年生まれ、キム・ジヨン」は、社会の歪みに対する最終解ではなく、それを見つめなおすきっかけとして、非常に優れた作品であると述べつつこの稿を終えたい(なお、作者インタビューもあるのでよろしければどうぞ)。
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