「バカは殺してもいいということですか?」

2022-09-19 13:43:43 | 日記

せっかくの休みだというのに外へ出るにはいかにも向かない天候である・・・ということで、ちょうど珍獣屋の話を書いた折、「食」に関する鴻上尚史の記事にも触れておこう。

 

端的に言えば、「牛を食べることは正当化しつつ、犬を食べることへの嫌悪感を示すことの欺瞞・独善性」について述べたものである。また今回の表題は、そのやり取りの中で「犬は賢い(から食べるのはよくない)」と発言した女史に対し、鴻上尚史が「バカは殺してもいいということですか?」と質問したものからとっている(ところで、状況的にありえないとは思いつつ、この女史に『彼女は頭が悪いから』という本を読んだことがあるか質問したら、自分の発言がどのような意味を持ちうるのかより深く理解して、もっと決定的な衝撃を受けたかもしれない)。詳細は元の記事を読んでいただければと思うが、重要なのは、分野やその程度は違えど、人間(あるいは生物一般?)はこういった「偏り」を決して免れることができないという点だろう。

 

それは「価値の序列化」である。たとえば「人を殺してはいけない」という規範を社会で共有しながら、なぜ戦争という場面では敵を大量に殺せるのか?それは敵を「同じ人間」とはみなさないように植え付けられるからである(このあたりは『戦争における「人殺し」の心理学』なども参照。ちなみにその冒頭は、前景の記事にも類似のエピソードがあるが、屠殺にあたって動物に祈りを捧げる=その生と死に対して畏敬の念を持つ話から始まる)。

 

また、環境保護やら環境保全と言うが、その対象にツェツェバエやマラリア蚊は含まれないというのもここに由来する。当然のことではあるが、環境に関する活動は人間の利益に供するために行われるという偏りを免れることができないのである(まあそうでないと、「人間を絶滅させることこそが環境保全だ」という話にもなりかねないので致し方ないことであるが、そういった限界を認識しないのは愚かだろう)。

 

これに絡めて話を進めるなら、「牛を殺すことは善であり、犬を殺すことは悪である」ということはありえない。ではなぜ、そのような「錯覚」が生じるのかと言うと、端的に言えば「距離感」の問題であろう。日本において犬はすでに愛玩動物として認知されており、狂犬病の問題や放し飼いにしないようには注意喚起されるものの、「パートナー」つまり「人間側にいる存在」として感じるから、それを食すことに嫌悪感を抱きやすくなっていると考えられる。

 

しかし牛は違う。牛を飼っている人の割合は極めて少ないから、積極的に嫌っているわけでなくてもそれとも距離感は犬より遠く、しかも屠殺という過程が不可視化されたまま目の前に供されるので、その死を意識することがないから、平気で食することができるのだ(これに対照的な事例として、先の屠殺の事例を想起したい)。

 

かかる具合に、犬を殺すことへの嫌悪感は環境や文化的要因によって生み出されたものなので、地域によって違うし、かつて野犬(≠愛玩動物)が普通に多かった日本でも普通に犬が食されていたことは驚くに値しない(もちろん、ヒンドゥー教の牛やイスラーム教の豚のように宗教的要因も重要なファクターの一つということは付け加えておく)。

 

以上を踏まえると、「牛を食べることは正当化しつつ、犬を食べることへの嫌悪感を示すことの欺瞞・独善性」を指摘された女史の「だって、犬は賢いでしょ!」という発言は、我々の生理的嫌悪感も歴史的に構築されたものに過ぎないということを理解せず、何とかそれを理屈で正当化しようとする反応の表れだった、と結論づけられるだろう(このような観点で、経済状況や動物保護の観念が変化した未来に関する思考実験の一環として書いたのが「生身のネコを飼いたいのなら、金持ちになりたまえ」であったりする)。

 

重要なことは、鴻上尚史も指摘しているように、そこで抱いた感情を(抑圧する必要もないが)そのまま正当であるに違いないとして理屈付けしていく行為の危険性を正しく認識し、それを日々の生活や分析に活かすことだ。そのようなエートスを身に着ける努力が、陰謀論にハマったり、あるいは出てきた情報(流言・デマ)へ脊髄反射的に対応するような軽挙妄動を避ける端緒となるのではないだろうか。


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