(登場人物紹介)
デーニッツ=D 、 ボフマン=B
D
はいどうもー、デーニッツです~。
B
ボフマンですー。
D
二人揃ってドラゴンボールです~。
B
いや何でそこだけ英語やねん!
D
そない言うたらワイら何で日本語で喋っとん(´・ω・`)?
B
えぇ、そっから・・・ほならこれでええか?Mein Füller...Shteiner...
D
いやそれキャラも状況も関係なさスギィ!
B
注文の多いやっちゃな。巷に溢れてる「なろう系ラノベ」もなぜかみんな日本語喋りよるし、まあええやんけ。つか「なろう系」の発想ってさ、結構宗教的エートスを理解する参考になると思わん?
D
突然のナックルボール(゚∀゚)キタコレ!!そら一体どういう意味なん?
B
だって要するに、「なろう系」って「今の世界じゃなかったらワイはもっと幸せなはずや」ってことでしょ。そこには「こんなはずじゃなかった」って不全感もあるわけだけど、それってまんま宗教じゃないですかー。
D
まあ宗教の場合は、そこに戒律とか前世の行いとか理屈づけをして、そう簡単にパラメーターカンストなんて状況にはならんように理屈付けされてるけどな。それに現世利益的な宗教もあるから、一概には言えんよ。
B
うむ。というわけで、今回は久々に宗教の話や。
D
前の記事から四か月も経っちまったけどな。
B
まあ年度末には間に合ったので計画通り!
D
ハァ(白目)?つかそれはいいとしても、今回の題名は何なのさ。
B
いやー、実は『日本人は本当に無宗教なのか』って本を読んだんだけどさ。
D
ああ、毒書会の帰りに丸の内オアゾの丸善で買ったやつね。
B
うむ。それで最初の1/3くらいまでは良かったんよ。こういう視点で書いてあるなら、もうワイ無宗教の話を書かんでよくね?と期待してた・・・が、ダメ!
D
下手だなあ礫川くん、下手っぴさ!て感じ?w
B
いやでも、読んでアカンと思った要因は、(特に現代)日本人の宗教を論じてる本でちょいちょい見かけるんよね。実際、ちらっとだけど『企業墓』にもそういう視点が出てくるし。逆に、井上順孝や石井研二のような、宗教を専門とする研究者の著作には見られないので、アカデミックな場で宗教学や宗教社会学の方法論を身に着けた人たちにとっては、自明なことなのかもしれんけど。
D
で、それは何なわけ?
B
「日本人は無宗教であるか否か」を問いに立てていること。
D
えっ?(藤原竜也並感)
B
「日本人は無宗教であるか否か」を問いに立てていることが間違い。大事なことなんで二回書きました(・∀・)
D
その問いが「ダメ」ってのはどういうことなんだい?
B
次のような思考実験をしてみようか。例えば仮に、今日本に住んでいる1.2億のうち80%が、「自分を日本人とは思わない」と答えたらどうだろう?
D
いやいや、「そんなわけないですやん!」て答えた人たちに突っ込むわな。
B
それはなぜ?
D
そもそも論すぎてどっから突っ込んでいいかって話だけど、国籍(nationality)の定義から反論できるだろう。まあ別の意味で「日本人ではない」と言ってる可能性もあるんで、ethnicityの視点から疑義を唱えることもするだろう。
B
ふむふむ、それで?
D
その上で、なぜそういう定義や認識が多くの人に共有されていないのか、年齢による違いはあるか、性差はあるか、地域性は?あるいは定義を共有した上で「あえて」そう言っているのか、などを考えるだろうね。まあそもそも、「一体どんな調査の仕方をしたんだろう?」ってのも気にして、質問の文言など含めて確認するわ。例えば、ハワイにおける自分の所属するグループへの帰属意識は50年前と今とで違いが見られるけど、それは単純に意識が変化したって結論を出す前に、そもそも50年前の調査では人々のモザイク的な帰属意識を掬い上げられるような調査方法になってなかった、ていうことが指摘できるし。
B
ところで、そういう突っ込みが成立する要件は何だと思う?
D
ほえ?
B
今お前さんは何の疑問もなく自分がその結論に突っ込むと言ったわけだけど、そうできる理由は何だい?ってこと。
D
ああ、それはある程度カテゴライズの定義がしっかり存在しているってのが一つ。もう一つは、さっきハワイのモザイク的帰属意識の話をしたけど、日本という地は良くも悪くもそういうのがあまり強くない・複雑でない場所である、という認識だね。一言でまとめるなら、反証の根拠がはっきりしているってこと。
B
はいよろし。では、それを踏まえて日本人の無宗教に関する質問だ。
1.神道の氏子の定義は何か?
2.仏教の信徒の定義は何か?
3.それ(ら)はどの程度一般に共有されているか?
4.仮にそれらが曖昧だとして、他者がそれらを外的に決めることができるか?
(アカデミックな視点+「信教の自由」という近代国家の枠組みという観点で)
5.対象の自己意識と乖離があるものを外的に決めたとして、そこにアカデミックな視点でどのような有効性があるのか?
D
うわー、「地獄甲子園」ばりのメンドクセーやつキター( ̄▽ ̄;)
B
これだとただ突っ込み入れてるメンドクサイ人みたいなんで一応補助線引いておくけど、いわゆる「セム的一神教」であれば、キリスト教なら洗礼、イスラームなら信仰告白という形で、ある程度所属の基準がはっきりしているんだよね。
D
つってもさあ、洗礼とか小さい頃にやったわけだから自分の意思なんてないでしょ?という視点である程度の年齢になったらもう一回洗礼をやるみたいな考え方もあるから、一意的には決められんでしょうよ。
B
もちろんそうだ。前にトルコの例でも書いたことだが、イスラームを信仰している人が99%とされている国だけれども、昼間からガバガバ酒飲んでる人たちはいっぱいいるし、女性では全身チャドルの人、カラフルなスカーフで頭だけ覆っている人、TシャツにGパンの人という具合に同じ地域でさえ全然違うんだよね。ことほどさように、宗教とはそもモザイクであり、それが当たり前なんだよなぁ。まあこれはこれで、ムスリム全体をテロに関係する人たちとして疑惑の眼で見るのが間違っていることにも関係するし、あるいは日本人の宗教への無知・無理解といった視点にもつなげられるんだけど、今の例で重要なのは、言ってみれば「入信」にあたる行為がはっきりしている=比較的教団や宗派への帰属を外的に定義しやすいキリスト教でさえ、そこには重大な揺らぎが見られるってことなんだ。
D
えーと、なんかさっきの問いに俺が答えないまま話が進んでるんだけど、つまりさっきの1~5の答えって・・・
B
1と2は「教団や宗派への『入信』という観点においては、管見の限り存在しない」が結論。そして3は「全く共有されていない」。ゆえに、4・5はどちらも「ない」が結論となる。たとえば仏教だけど、まさか「出家している人=仏教徒」と考えている人なんていないだろう。かと言って「檀家=仏教徒」というわけでもない。少なくとも、そうであると言う人には、実態というものを完全に無視してないですかね?と問いたいね。自分や自分の身の回りで考えた時に、「どこかの寺の檀家である=その宗教・宗派に帰属している」という図式が成り立つと思いますか?て話よ。
D
その点は、自分たちの事例より、別の世界の話をした方がすんなり受け入れやすいかもね。『ホモ・ルーデンス』に掲載された対談でも出てくるけど、例えば共産主義者が友人のキリスト教式の葬式に出ている時、それはどういう状態だと評価できるのか?て話だ。
その点は、自分たちの事例より、別の世界の話をした方がすんなり受け入れやすいかもね。『ホモ・ルーデンス』に掲載された対談でも出てくるけど、例えば共産主義者が友人のキリスト教式の葬式に出ている時、それはどういう状態だと評価できるのか?て話だ。
B
はいはい。それは日本における宗教的儀礼の「慣習化」、つまり宗教的帰属意識と儀礼の切り離しや、それが成立する背景を考える点でも重要だけど長文になるんで今は掘り下げないけど、要するに「その人の死を悼む気持ちはあるし、他に強い違和感・不快感を与えてまでその宗教的行為を否定するわけではない」というスタンスと、「形而上的世界や体系化された世界観=宗教に自らがコミットする気はない」、というスタンスが並行して存在していると表現できるだろうね。日本における「葬式仏教」も、そういうものとして評価できる側面が多分にあるし、ゆえに「檀家=宗教的帰属意識」とはならないわけさ。さて、話を戻すと、じゃあ仏教徒である絶対的な要件て何ですか?そして人はそれを共有して仏教徒である・仏教徒でないを自己認識してるんですか?という話になる。
はいはい。それは日本における宗教的儀礼の「慣習化」、つまり宗教的帰属意識と儀礼の切り離しや、それが成立する背景を考える点でも重要だけど長文になるんで今は掘り下げないけど、要するに「その人の死を悼む気持ちはあるし、他に強い違和感・不快感を与えてまでその宗教的行為を否定するわけではない」というスタンスと、「形而上的世界や体系化された世界観=宗教に自らがコミットする気はない」、というスタンスが並行して存在していると表現できるだろうね。日本における「葬式仏教」も、そういうものとして評価できる側面が多分にあるし、ゆえに「檀家=宗教的帰属意識」とはならないわけさ。さて、話を戻すと、じゃあ仏教徒である絶対的な要件て何ですか?そして人はそれを共有して仏教徒である・仏教徒でないを自己認識してるんですか?という話になる。
D
なんか色々なところから怒られそうなことを断言したな・・・
B
え?何で怒られんの?別にこれは批判じゃあないぜ(というか、「批判」に見える時点でバイアスかかってんじゃね?とあえて言いたい)。俺がしているのは価値判断じゃなくて、実態の話だ。これに反論するなら、たとえば「何をしたら神道の氏子になるのか」という一意的な定義をお答えくだされ。そして「それは一般に流布してもいる」という根拠をお示しくだされ・・・という話よ。少なくとも俺は今までそんなもん見たことも聞いたこともないわ。ちなみに、もし自動登録的に氏子になるっていうのなら、そりゃ帰属意識なんかなくて当然だわと思う。というのも、例えて言うならそれは、役所に出生届をして登録されるようなもんだけど、一体どこのどいつが、出生届を出しただけでそれ以降関りのない「役所」に帰属意識なんて感じるのかって話だ。ましてロイヤリティーなら猶更である。
D
まあ確かにねえ。
B
となれば、結局は~教徒であると「思うor思わない」=宗教的帰属意識の話に行きつかざるをえなくないですか?と俺は言ってる(というか言い続けてる)わけ。これが無宗教に関する問いのコギトだとわかってない人が大半のように俺には見えるね。なぜなら、それがわかっているとすれば、「何で仏教徒でもないのに仏式で葬儀やるんですか?」とか「仏教で葬式やったり墓に参ったりはしてるんだから、やはり仏教徒じゃないの?」なんて疑問は出てくるはずもないからな(なぜならそれは、統一的基準がない=人によって基準が違って当然だからで、「ワイはそれを仏教徒がやる行為やと思うんだけど、あの人(たち)はそう思うわんのやなあ」で話が終わる)。まあ仏教でイメージされやすいであろう葬式も墓も、本来仏教とはカンケーないんだけどねw
D
あーちょっと色々な要件が絡まり過ぎてるんで頭が痛くなってきたわ・・・要するにそれは「そもそも特定宗教の儀式だったものが、教団や宗派への帰属意識が脱色されて単なる慣習として意識されている」ってこと?
B
まあ大体合ってる。だから、ある儀礼を取り出して、「~という行為をやってるんだから・・・教徒じゃないのか?」みたいな話をしても、あまり有効性がない。なぜなら、そこの繋がりが切り離されてしまっているからだ(ゆえに、「どのようにして儀式と宗教的帰属意識が切り離されていったのか」というのが重要な問いになってくるわけだ)。わかりにくい人は、日本の人の多くはクリスマスを祝うからといってキリスト教徒ってことにはならないし、彼・彼女らがキリスト教徒だからクリスマスを祝うというわけでもない、と考えてみたらどうだろうかね。
D
「まあ日本人はイベント好きだからw」ってコメントが出てきそうだな。
B
まあそういう言い方もできなくはないが、そこに一つ批判をしておくなら、それは「何かを言っているようでいて、何も言っていることにならない」よ。考察をするなら、ウェーバーのプロテスタンティズムと資本主義の話じゃないけど、「どうしてそのようなエートスが生まれたのか」という視点を持たないとね。でなければ、思考停止への一里塚ってやつだ(・∀・)
D
まあ確かに、表面的かつ一面的な評価ではあるわな。ところで、入信の定義が曖昧って話がさっきあったけど、それは儀式と帰属意識の結びつきが希薄ってのにも関係してるのかい?
B
ああ、それは十分にありえるだろうね。少し先取りして書くと、江戸時代の仏教のシステム化と形骸化、明治時代~昭和戦前での仏教のハシゴ外しと慣習としての性格の強化、同時期の神道のシステム化と形骸化、戦後日本における共同体の解体(cf.1952年の調査で個人の宗教として仏教と答えたのは50%強なのに対し、「家の宗教」として仏教と答えたのは90%に近い。となれば、就職や大学入学などで家から切り離されると信徒の割合は減る、という推測が成り立つ)、オウム事件・・・といったいくつかの段階を経て、日本人の大半が無宗教という状況は作り上げられていったと考えられるけど、その中で仏教も神道も「入信」の基準が曖昧なことが宗教的帰属意識の剥落の上で重要な意味を持った可能性は十分ある。
D
仏教の檀家制度は?
B
えぇ??長くなるからそれ言及せんかったのに・・・えーと、むしろ檀家制度が300年近く続けられた江戸時代を経て、近所の寺がただの「役所」と化した可能性が高い、とだけ言っておくわ。さっき神道と氏子の件で書いたのと同じやな。これはいくつか言及があるんで別の記事で述べますわ。
D
ほいほい、じゃあ最後にまとめてくれや。
B
(1)
日本でよく見られる宗教として神道と仏教が挙げられるが、その二つとも「入信」の基準が曖昧である。ゆえに、「日本人は無宗教であるor無宗教でない」を問いに立てても色々な基準で何とでも言えてしまうため、単に「個人の感想」としかならず、考察としては有効性が極めて低い。
(2)
神道と仏教の「入信」の基準が曖昧であることは、江戸時代以降国家による宗教統制が強まりシステム化される中で、宗教的儀式と宗教的帰属意識の乖離を促進した可能性がある。
(3)
日本人は大半が無宗教と言いながら宗教的儀式を行っていることを指摘・強調したいのなら、「日本人は無宗教ではない」という(事実)表現は不適切で、「日本人は宗派や教団に帰属意識はないが、宗教的儀式は慣習として行い続けている(点に特徴がある?)」、「日本人の大半は無宗教を自認しているが、それは見えない世界を信じない=脱呪術化していることを意味しない」などと言うべきである(ということを踏まえると、日本人の無宗教を共産主義や唯物論の影響って考えるのも眉唾って話になる)。
(4)
以上を踏まえると、日本人の無宗教を分析する際に私たちが拠ることのできる「コギト」は、「日本人の大半が自分を無宗教だと自己認識している」という事実である。もう一度繰り返すが、「無宗教であるor無宗教ではない」という問いではない。
D
長っ!!要するに、「仏教徒かも氏子かも一意的には決められないのだから、事実に注目してもただの個人的信条の吐露にしかならん(=それってあなたの感想ですよね)。せやから人がそう認識する背景は何か?という認識のハレーションに注目する方が、考察の上で実りがあるんじゃないですかい?」ってことだよね。
B
要約の要約ってこれもう意味わかんねぇなあ(困惑)。
D
お前のサマライズ能力が低すぎるんじゃダボカス(# ゚Д゚)
B
そういやダボカスって略したらDBになるよね。
D
いや無理やり最初と繋げようとせんでええから!
B
お後がよろしいようで・・・
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