先日の記事では、日本人が自身を無宗教と認識していることについて、「宗教的帰属意識と宗教儀礼の乖離・分離が重要である」という趣旨のことを述べた。そしてその一因としては、江戸時代における仏教の「国教化」、すなわち宗門人別改帳による仏教諸宗派への自動登録システムと、それによる帰属意識の形式化という要素を指摘した(他にも明治期における神道「非宗教」化などを指摘したが、詳細は割愛する)。
さて、このような指摘について、ある程度日本仏教史に興味がある人なら、辻善之助を嚆矢とする日本仏教堕落論を想起する方も多いだろう。なるほど、あくまで日本仏教を「思想史」として見た場合、天台宗や真言宗が展開された平安時代、あるいは浄土宗や曹洞宗などが花開いた鎌倉時代と比すれば、江戸時代の仏教に(少なくとも一般にも知られるレベルで)新しい思想的潮流を見出すのは難しく、にもかかわらず全国に仏教教団・仏教寺院が展開していたことから、体制との癒着(安住)と教義研究における停滞をセットで考える姿勢にはそれなりに説得力がある(まして同時代に垂加神道や国学が生み出されていたことを思えば、なおのことその感を強くしても不思議ではない)。
その意味において、辻らの見解は一視点として傾聴に値するものではあるが、しかし繰り返すけれども、その評価はあまりにも思想史的であって、より大きく言えば「日本の宗教史研究の偏り」が刻印されているように思われる(それを打破するものとして西村玲の『近世仏教論』は極めて重要な先行研究と言えるだろう)。ましてや、その思想的停滞を仏教宗派・教団への帰属意識剥落へと短絡させるなら、それは戦後の帰属意識調査(半数以上の人間が仏教を信仰していると返答)などを無視した、極めて手前勝手な「私の評価する日本仏教」でしかなく、到底日本人の宗教意識を公平に評価したものとは言い難いように思われる。
そもそも、あえて一般的な問いかけをすれば、江戸時代には「宗教熱が急速に低下したor停滞した」のだろうか?こう考えてみると、そこには明確な反証がある。例えば、一字一石経奉納の爆発的流行、あるいは、お伊勢参りや金比羅参り、熊野詣などの存在を指摘することができる。なるほどそれらの現象を見ると、「信仰心の横溢」とか「あくなき巡礼の情熱」というよりは、「手ごろな呪い(まじない)アイテムの活用」とか、「巡礼ツーリズム」とでも呼ぶべきカジュアルさや「不純さ」(当時は旅行が制限されており、お伊勢参りなどは格好の口実となった)を持っていたという評価を下したくなるかもしれない。しかしながら、伊勢講や冨士講といった形で、その憧れの場所へ到る準備・援助(聖地巡礼)をコミュニティレベルでも共有・支援するような仕組みがあった点について、軽視すべきではないと思われる。
この問題は、現代日本人の宗教理解の浅薄さ、あるいは欧米的な宗教観の影響など様々な要素に関連していると思えるが、そこから距離を置くための視点として、江戸時代における宗教のあり方を、「欧米の近代化に伴うデノミネーション(世俗化)の先駆け」として分析・評価してみることを提案したい。
なお、欧米的な宗教観の影響を問題視しながら「デノミネーション」という欧米の近代化の枠組みを活用することに疑問を抱く向きもあるかもしれないが、その影響は主にbelief、即ち信仰の部分に偏っており、宗教とコミュニティという視点についてはむしろなおざりにされていると考えるため、ここに大きな問題はないとみている。ちなみに、このような視座を用いた研究の実りは、アメリカの宗教状況を「市民宗教」というワードで分析もしたロバート・ベラーの『徳川時代の宗教』を好例として挙げておきたい。こちらは題名から想定されるであろう江戸時代における宗教の話ではなく、そこで培われた文化的エートス(例えば二宮金次郎の逸話を想起したい)がウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」的なものと類似する部分を持っており、それが明治における日本の「キリスト教(プロテスタンティズム)なき近代化」を可能にしたのではないか?という分析である(この後にも繋がるのであえて言っておくなら、宗教学的・思想史的アプローチではなく、パーソンズの近代化モデルを用いた社会学の分析手法を用いている)。もちろん批判もあり、鵜呑みにする必要はないが、「偶然にも近代化が可能となった背景」を考えるにあたり、傾聴すべき見解の一つと言える。
話を戻そう。
これは先に述べた江戸時代の流行に見られる一種のカジュアルさとその評価にも関連するが、別の側面としては、宗門人別改帳による民衆の登録・管理というシステムが、社会としてどのように機能していたかを多面的に分析していく、ということである(この辺りは圭室文雄『葬式と檀家』などが参考になる)。非常に抽象的な話をしているように思われるかもしれないが、例えばこの時に確立したとされる一村一寺制度は、コミュニティの依り代として寺院が機能していたことを示すだけでなく(この時の寺院はある意味「役所」でもあるから当然と言えば当然だが)、そのあり方を欧米の教会と街区、またはイスラーム世界のモスクとハーラなどと比較する上でも参考になる。
そして、この寺院の機能は明治期に入り学校に取って代わられるのだが(そもそもこの点は認識されているのだろうか?)、これがどの程度コミュニティの実態、すなわち行事の実施や村落の運営形態などに影響を与えたのかを考えていく出発点にもなるだろう(これは何度も述べていることだが、日本人の「無宗教」を考える際その信仰心にしかフォーカスしないのは、例えば戦争や植民地支配においてそのお題目にしか着目せず、実態としてどのような特性が見られたかを無視・軽視するがごとき愚行である)。
そしてこのような寺院とコミュニティとの結びつき、及びそこに埋め込まれた共同体成員という視点で分析していくならば、戦後の都市化・核家族化といった現象により伝統的共同体から離れる人間が多くなった状況において、どのような帰属意識の変化が生じたのか否かを比較考慮する際の参照項ともなるのではないだろうか。
なお、こういう時に書籍、特に一般書でありがちなアプローチは、あくまで個人と宗教[≒思想・教義]の直接的な信仰・帰属関係にのみ着目することであり、そこには「共同体と宗派・教団」、「家族と宗教・教団」といった集団への所属・帰属とそのあり方という視点が全く欠けているのである。以前「野辺送り」=土葬の動画を紹介したこともあるが、宗教儀礼にそれなりの理解がある人なら、それが共同体と結びついているのは自明のことで(そう感じないのは、戦後急速に儀礼参加の個人選択が進展した影響)、ゆえに村八分でも葬儀などは例外とされたのである。
前述した戦後の宗教意識調査で「個人の宗教」は仏教と答えた割合が50%強なのに対し、「イエの宗教」では仏教と答えたものが90%弱にも及んでいることを踏まえると、イエや共同体に埋め込まれていることが、宗教的帰属意識にどのような影響を与えたかについては、分析しない訳にはいかないだろう(まあこれについて現代で研究を行おうとすれば、複数村落と複数都市部で宗教への帰属意識や宗教儀礼への意識調査を行い、それぞれに世代を例えば10~20代・30~40代・50~60代・70~80代と区切ってどのような差異があるのか否かを分析する必要があるのでなかなか大変ではあるのだが…)。
その他にも、世俗化という視点ではメディアの発達も挙げられるだろう。以前近代以降の仏教について言及した際はラジオの普及について述べたが、例えば松下幸之助はラジオで説法を聞いて大きく影響を受けたことが指摘されている。現在それほど関連研究を読めている訳ではないので、あくまで現時点での私見だが、ラジオで説法を聞くことによる効果というのは、「仏教の道徳化」ではないかと考えている。これは先日の松下がそこから自分なりに抽出した理念を会社や勤労の精神として言語化したことにも表れているが、要するにラジオ=教団と直接関わらない≒教団・宗派への所属意識は高まらないものの、仏教的な発想法については感銘を受けたり影響を受けた結果、仏教から思想や発想法のみが抽出され、そこに人々の意識がフォーカスするようになったのではないか、ということだ(ちなみにこのより前の時点でも、特に浄土真宗では清沢満之らによって「仏教の哲学化」とでも呼ぶべき傾向が生まれていたように思われるが、それはかなり意識の高い≒知識人限定のものであり、庶民がより手の届きやすい=社会的影響がそれなりに大きくなる現象としては、このラジオの普及が無視できないものと考えている)。では、江戸時代の仏教については如何?というわけだ。
以上、近世仏教(宗教)を近代化に先立つ日本版デノミネーションとして分析・評価する、という視点で宗教と共同体、メディアと宗教という二つの視点を試みに書いていた。このような形で多面的に日本人と宗教の関係性を見ていくことが、その帰属意識の特徴・変遷の理解はもちろん、その他の様々な分野への理解をよりいっそう深めていくことになるではないだろうか。
以上。
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