「本能寺の変」と言えば、歴史好きでなくても一度くらいは聞いたことがある(記憶に残っている)用語ではないだろうか。この事件については、歴史的に扱われ方が変化するとともに、その真相について様々な考察がなされてきた。
前掲の動画において、主要な説とそれへの反論・批判はよくまとまっているので、ここでその事件や説についてくだくだしく述べることはしない(ちなみに1時間も見てられるかい!という向きのために、別の方だが25分のものがあるので掲載しておく。様々な説の詳細は省きつつ、それらが跋扈する背景は簡潔明瞭にまとめられている)。
では私が冒頭の動画を紹介した理由はと言えば、陰謀論的発想・世界観の対極に位置する思考態度を示す好例だと考えたからだ(つまり、本能寺の変に収まる話ではない)。
すなわちそこでは、(史料批判を経た上で)一次史料、それが厳しければ二次史料に基づき確率論や蓋然性、あるいは他の事例との比較検証(信長-朝廷の関係性を室町幕府-朝廷のそれと比較するetc...)によって当時の世界像が再構築され、ゆえにノイズは排除されず、自説の都合が悪い要素にも向き合う姿勢が貫徹されているのである(ゆえに当然、他の可能性=説が同時に存在することはありえるし、是非は置くとしても評価者の時代環境や価値観=「様々なる意匠」によって評価が変化することも当然起こりうる。まして、新出史料によって大きく状況が変化しうるのは言うまでもない)。
思うに、コメント欄で攻撃的発言をにしていた人たちは、今述べた「他の可能性が同時に存在しうるのが当たり前」で、あくまで「史料に基づいた確率論や蓋然性に過ぎない」ことを忘却してしまい、自説に固執してしまったのではないかと推察する(なお、投稿者のコメントにあるように、それらは削除されている)。
ここからもわかるが、人間とは脆弱な生き物だ。ひとたび何者(何物)かをそうであると認識したならば、都合の悪い要素は捨て去り(見なくなり)、時にはそれまでの世界観を強化するファクターとして付会することすらある(いわゆる「認知的不協和」や「正常性バイアス」として語られる人間精神の働きからすれば、それはもはや抜きがたい性質と言っていいだろう。もちろん、「一度アレルギー反応を示した食物を食べない」といった身を守る意味もあるから、こういった認知の構造を全否定するのも愚の骨頂と言える)。
またそれゆえにこそ、今述べたような認識(それはしばしば文字通りprejudiceとなる)に固執することを戒め、常に批判的検討をするエートスとして、「穏健な懐疑主義」が必要だと言えるのではないだろう(このような話を私があえてまたするのは、「多くの人にそれが共有されていると思っていない」=人間を信用していないからだ)。
というわけで連続企画の第一弾終了。それではまた次回。サリュー。
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