『ヒヤマケンタロウの妊娠』の漫画を紹介したのが2013年の3月末。当時数か月単位でこの記事のアクセス数が一位だったことから、結構話題を呼んでいる作品なのかな?とぼんやり思っていたが、どうやら2022年にNetflixで放送されることが決まったらしい。
この傑作に多くの人が触れる機会が増えた、ということ自体は喜ばしいが、少し自分が懸念していることもあるので書いてみる。ちなみに、「男性が妊娠する世界なんて前にも描かれたことはいくらでもあるだろう」と思う向きの方は、おそらくこの作品の表面だけを見ている可能性が高いので、一度漫画(200ページもない薄い1巻本)を通読することをお勧めしたい。
1:実写化のもたらす影響
正直、アニメであればかなり表現のハードルは下がると思うが、そこをあえて実写できましたか・・・制作サイドのコメントを見ているわけではないので、あくまで自分個人の印象論にとどまるが、この作品における重要なファクターの一つ、「身体性」をストレートに表現する狙いがあるのではないか。
そもそも論として、例えば現代日本の学校における性教育は旧態依然としたままであり、男性→女性という理解の仕方で言うなら、下手をすればAVが男性の「教科書」代わりになって大切なパートナー相手に悪気なくAVならぬDV的行為(例:「ガシマン」と呼ばれる激しい性器への愛撫)を働いてしまう状況である(想像できない人は、例えば己のセンシティブな部分が「歯ブラシ」みたいなものでガシガシこすられている事態を想像してみるといい。それは性愛の名を借りた半ば「拷問」と言っていい)。
まして、女性の生理やつわりなどについては、個人差があって理解が追い付かない部分もあり、(特に前者は)右往左往するしかなかったりする。
このような状況を踏まえると、実写化という戦略が、ある種「自らを深く省みる」機会となりうるかもしれない・・・とは思う。しかし、それらが滑稽に映り過ぎたり、生理的嫌悪感が先に来てテーマについて考える前に拒絶されることも考えられる(※)。
まあ世界規模で発信するため、「まずは問題提起として描く」という意味でも、それがどう描かれるか、またどう受け入れられるかは注意して見ていきたい。
2:「男VS女」という単純な図式で描かれないか
この点については、以前の漫画レビューで書いたので、詳しくは繰り返さない。多少かいつまんで書けば、「男性も妊娠するようになれば、女性の苦労がわかって社会も変わるでしょう」というような認識、言い換えれば「理解のない野郎共に女性の苦労を追体験して考えさせてやる」などという浅薄な二項対立で社会・人々を描いていないのが原作の特長であり、極めて高く評価できる理由の一つでもある。
私が懸念するのは、こういった作品の価値が、わかりやすさのためにカリカチュアされて二項対立的に表現されはしないか、という点である。一応予告編を見る限りでは、男性を妊娠「させた」女性が友人に「思わず自分の子なの?って言っちゃた」と言って「それって男のセリフだよ」と指摘される場面が出てくるので、おそらくそういう「立場や環境が人を作る」という「交換可能性」の意識はされているのだろう。
この話を少し実社会に引き寄せて言えば、そもそも女性の中には出産する方もいれば、出産したくてもできない方もおり、また出産ということをそもそも考えない方もいる(こういう視点は原作で徹底されている)。また例えば、先に述べた生理で言うと、では女性は全員同じ認識を共有しているかと言えばそうではない。なぜなら、その重さには相当程度個人差があり、むしろ自分も経験しているからこそ、「なんで生理ぐらいでそんな休むとか言ってるんだろう?」という無理解な発言を全く悪気なくしてしまいうるのである(これが前にも述べた「『共有できていないという事実』を共有できていない」ということでもあり、「わかっていると思い込んでいるが実はわかっていない」のが厄介なのだ。ちなみにこれは先日書いた、自身のワクチンの副反応についても同じことが言える)。あるいは、例えば専業主婦の母親に対して浴びせられていたようなサラリーマンの父親からの暴言を、自分が働いて夫が専業主夫であったら、同じようにしてしまうかもしれない・・・
繰り返しになるが、このような男VS女といった二項思考と、「男とは~である」・「女とは~である」というノーマライゼーション=「普通」という名の暴力からこの作品は意識的に脱却しようとしている。その上で、きちんと個人差に注目しつつ、一方でそれを同じものとして扱おうとしたり色眼鏡で見ようとする社会という存在もドライに受け止める(主人公はそんなものだと思ったうえで、戦略的に利用しようとする)たくましさを持っている。
というわけで、この特長が実写版でも継承されてほしいと願う次第である。
連続企画の第二弾はこれにて終了。
※余談
実写化と生々しさという話をしたが、この逆を戦略的に採用したのが「戦場でワルツを」という2008年の映画だ。実際のレバノン内戦を元にしたドキュメンタリー的内容でありながら、その過酷さから非現実的なものとして登場人物に認知され、しかしそれが悪夢のように参加者たちを苛んでいるという内容であるため、あえてアニメという形態で表現されている。
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