「YU-NOエンディング批評」シリーズも終盤に近づいてまいりました。つーか今さら思うけどニーズってあるのかねw
ちなみに当時は話が大きくなるので触れなかったが、「大きな物語」云々の話は今だったら「エ・アロール part2」や「ザンジバーランドの怪人」へと繋げるだろう。「社会正義」や「大義」への信頼が大きいというのは、本来社会秩序を維持する上でメリットとなるはずである。ところが、複雑化した社会のシステムを理解しようとせず、ただ先のような枠組みを信頼=信仰し、自らの不全感を社会の不条理と勘違いしてそれを短絡的に是正しようとすれば、オウム真理教になる・・・とったことを俺たちはすでに知っているわけだ(cf.「精神主義という名の病」)。また朝日平吾などに見られる大正テロリズムの精神性といった例も、自意識と世界の問題の短絡が人の陥りがちな罠(これはナショナリズムや大いなるものへの埋没)であることを我々に示してくれてもいる(ゆえに、少なくとも俺は小此木的な立場に立つことは到底できない)。ちなみにその点、丸山真男の分析は(正しいのだけれども)受け手に当時の思想家や行動者たちへの嘲笑的態度を招来する、つまり気付きより無害化へ意図せず人を導いてしまう危険性がある。まあそれを簡単に風景化してしまう人間が浅はかだと言ってしまえばそれまでなんだけど、橋川文三の著作を読む方が重要だと俺が思う理由もそこにある・・・とか何とか。
おっと前置きが長くなってしまいましたが・・・それでは原文をどうぞ。
[原文]
予定に反して二編に分かれてしまったが、そろそろ「ワクガイ!!」の死聴時間が2時間を超えて脳みそが変色しそうなのでとっととカタをつけることにします。なお、前編の「YU-NOエンディング批評結:たくやの行動原理とエンディングの齟齬」を未読の方は必ずそちらに目を通した上で以下の記事を読んでください。
本編におけるたくやの行動原理は、
A:「家族への情念(=家族の希求)」
B:「日常性の希求」
C:「大きな物語の拒否(あるいはそれへの距離感)」
の三つにまとめることができる。Aなどはケイティアに抱かれるたくやの姿が物語の最初に描かれていることなど、いくらでも具体例を挙げることができるし、異論はないだろう。しかし、BとCはこれだけだと曖昧だし、また仮にある程度何を言いたいか理解できる人でもほぼ間違いなく反論しようという気になる内容だと思われる(ちなみに、「大きな物語」を大ざっぱに言えば、単一の真理、ナショナリズム、国民国家など近代において一般性を持っていた共同幻想のことを指している)。よって以下では、その三つの枠組みが成立しうる根拠を、本編の具体例から提示していきたい。
1.広大をぶん殴って「連れて帰る」
たくやはアウトローのように言われているが、実のところ非日常を楽しむ様子は全く無く、むしろ日常に回帰しようとする姿ばかりが目につく。リフレクターにしても、新しく得た魅力的な器具を何かおもしろいことに使ったり悪用したりという発想は全くしていない。それどころか、広大を連れ帰ることで以前の日常へ回帰せんとばかりにこのセリフを吐くのである。当たり前のことだが一応確認しておけば、たくやの見地に立つなら、「現世編」とは、リフレクターという非日常的な道具を使用はするものの、あくまで家族を連れ戻し日常へと回帰しようと奮闘する話なのである。
2.歴史の真実という「大きな物語」への距離感
澪の部屋で広大の思想や剣ノ岬についてたくやは澪と話すのだが、剣ノ岬の真実を明らかにしたいと目を輝かせる澪に対して、たくやは冷静である(もちろん、広大の話題であることや、澪の熱心さが逆にたくやを冷静にさせていることも考慮に入れなければならないが)。ここで、たくやは決して関心がない話題だから受け流しているわけではない点に注目したい。というのも彼は、歴史の真実にこだわる澪に対し、基準の相対性を語っているからである(今ある暦が絶対のように考えるかもしれないが、昔はユリウス暦で、かつ暦にはズレが生じて云々)。このような切り返しは、一なる真実を希求するという姿勢に対し、認識・解釈の多様性に留意しようとするたくやの姿勢、考え方を表していると言える。やや図式的になることを恐れずに言えば、この対立は「異世界編→事象の根源」と「現世編→多用なる結末」の関係にも適用できるだろう。
3.龍蔵寺邸における会話
龍蔵寺の言う広大の研究テーマ「不老不死」について、たくやは呆れたような反応を返す。もちろん、同じ事を言われたら(たくやほど露骨ではないにせよ)似たような反応を返す人が多いと思われるが、それでもリフレクターデバイスという人知を超えた道具を手にしているにもかかわらず、不老不死=永遠に対するたくやがこのような態度を取っていることは注目に値する。しかもその不老不死の状態とは、エンディングのたくやたちそのものか、あるいはそれに近いものだと推測される(有為転変する事象から自由[?]であるとはおそらくそういうことだろう。またそれゆえに、たくやとユーノの究極の二項関係だとか、ユーノがグランディアの魂の解放[=自殺]という巫女の運命から免れうる、といったエンディングの意味も出てくる)。エンディングのたくやが自分たちのいる空間を正確に理解しているかは不明だが、それにしても、不老不死(不変)を求める有馬広大ならともかく、それを笑った(有限であるのが当然)たくやにそのような空間・状況はそぐわないし、それを取り乱しもせずに受け入れるなら尚更奇妙である。
4.デラ=グラントからの脱出の試み
具体例1とも関係するが、デラ=グラントへ飛ばされたたくやは、何とか以前の境町に帰ろうとボーダーの方へ行こうとしてみたり、果てはラファエロ砂漠の踏破に無謀な挑戦を試みたりしている(この無謀さは、帝都を目指す時のラファエロ砂漠越えと対比すれば明らかだ)。ここでも、たくやはデラ=グラントという非日常をあっさり受け入れたり冷静に観察したりするというのではなく、むしろ必死とも無謀とも言える脱出を試みるのである。そしてこの無謀さは、そのまま日常性へ回帰しようとする気持ち、すなわち日常性の希求の強さを表している。アウトローと言われるたくやだが、このように日常へ回帰しようとする姿が繰り返し描かれていることを改めて強調しておきたい。
5.ユーノにも同じ年頃の友達を…
たくやの家族にかける情念は並大抵のものではないが、しかしまた、「家族さえいれば他は何もいらない」ということでもない。それを象徴するのが、成長してきたユーノに同じ年頃の友達がいれば…というたくやの悩みである(その役割は結局クンクンが果たすことになる)。これは別にユーノが言い出したわけではないし、またユーノが親離れしつつあり一人でいることが多くなったわけでもないので、たくやが純粋に気を利かせた結果の悩みなのであるが、それだけにかえってたくやの思想を如実に反映しているとも言える。つまり彼は、かつての日常世界での経験則・常識から、自分の子供もまた同じ年齢の友達が必要だと考えたわけである(それにしても、たくやはアウトローのように言われているが、詳しく見ていくとむしろ「良識的」という評価の方が相応しいようだ)。要するに、たくやは家族さえいればそれでいいとは考えておらず、(誤解を恐れずに言えば)社会との繋がりも必要であると認識しているのである。このことを考慮するなら、果たしてエンディングの如き空間にいることをたくやは幸福と感じるのか疑問である。なるほどそこには唯一の家族となったユーノはいる。しかしながら、社会・日常と離れた空間にいることに対して、上記のような考え方をするたくやが幸福や心の平静を感じるとは思えない。もっと正確に言えば、そう感じないような人物として、たくやは描かれているのである。
6.セーレスの復讐において、大義名分を求めない
たくやの家族に対する一貫した情念を思えば、セーレスを殺されたことに対する烈しい怒りは必然的だが、それにしても自分の行為に社会的な承認・意味づけを求めようとしないのは重要である。彼の「家族の希求」という行動原理がいかに強いものであるかということ、そしてまた「大きな物語」への距離感が窺えるというものだ。
7.最後の儀式の時の振舞い
デラ=グラントが元いた世界と次元衝突するのを回避するための儀式にユーノが臨んでいる時、たくやは儀式を止めるように子供っぽく駄々をこねる(皮肉でもなんでもなく、この表現が一番適切だ)。そしてこの例こそ、「家族の希求」及び「大きな物語の拒否」という解釈を最も決定的にするものである。くだくだしく述べることは避けるが、ここでたくやは、娘がデラ=グラントと自分のいた世界という二つの世界を救うこと(「大きな物語」の救済にその身を殉じる)よりも、家族と死ぬことを選ぼうとしている。目の前でただ一人の肉親が死のうとしており、それを見てはいられない…そういう気持ちはなるほど予想できるが、それにしても神帝から「変わった」と言われながら、結局最後の最後までたくやの行動原理に変化がないことは事実である。子供っぽい振舞いはその感を強くさせるが、一方であまりに極端なその様子は、違和感を萌芽させるに十分なものだ。
そこで、なぜこのような描き方をする必要があったのかを考えてみると、おそらくプレイヤーからその行為を「安易なヒロイズム」として批判されるのを回避するためであったろう(※)。このように書くと、「書きたいのに書けなかった」という可能性を疑う人がいるかもしれないが、YU-NOにおいて剣乃(作者)が様々なタブーが描いていることを思えば、その可能性は低い。なるほど近親相姦だけならエロゲーという性質上プレイヤーの拒否反応はそこまで強くないという計算を作者がしていたかもしれないが、クンクンのカニバリズム的な話は全く説明がつかないのだ。
とするなら、剣乃にとって有馬たくやと「大きな物語」は、結びつかないか、あるいは結びつける必要のないものと認識されていたに違いない。そしてたくやが復讐に大義名分を求めなかった(具体例6)ことなどを考慮すれば、前者の解釈がおそらく正しい。要するに、作者の意識・意図というレベルにおいてもまた、たくやと「大きな物語」は結びつかないものだと理解されていた、と考えられるのである。
以上の具体例の中には、「照れ隠し」や反発といった要素を考慮すべきものもあるだろうが、全体として見れば、私が冒頭で述べたような特徴が明らかな共通項として見て取れるのである。さらに前述の具体例からは、
(Ⅰ)特徴が最後の最後まで続く(一貫した)ものとして描かれている
(Ⅱ)「大きな物語の拒否」は作者の意図というレベルにおいてさえ確認される
という二つの重要な指摘をすることが可能であるが、ここまで説明すれば、非日常的空間において事象の根源という一なるもの(=「大きな物語」)に到達し、静謐の中で終わるYU-NOのエンディングが、有馬たくやの本編の描かれ方とどれほどかけ離れているは容易に理解できるだろう。
ここで代案を提示する最終段階にいきたいのだが、いささか文章が長くなりすぎた。変更の方法は大きく言って二つあり、もうすでに答えも出ているが、代案の提示は次の記事に回すことにしたい。
※
このような演出は、私情よりも大きな物語に殉ずることを優先する態度に対しての若い人の否定的な反応を考慮してのものであったろう。PCゲームプレイヤーの中心が20~30代の層であったことを思えば、これはある程度必然的な処置である。なお、そういった反応としては、小此木啓吾『自己愛人間』[ちくま学芸文庫 1992]に描かれる、カサブランカの主人公の姿勢への反発などが典型的である。
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