俺は基本的に出来の悪い作品が嫌いだ(※)。そして中でも、出来の悪さを聞こえのいい、「感動的な」フレーズで誤魔化している作品が嫌いだ(勘違いしてもらったら困るが、感動的な作品が嫌いなのではない)。またそういう内容に何の疑いもなく感動する連中も嫌いだ(※2)。中身はどうでもよくてとにかく感動したいというのなら、根を上げるまで「奇跡の救出劇」でも見せてやりたい。そしたら、「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスの逆バージョン、つまり感動的シーンを見ると吐き気を催すようになってさぞ愉快だろうなと思ったりする。とまあさすがにこれは誇張だけど、要するにそれくらい嫌いなのは確かである。
もっとも、だ。そういった安易に感動できる人間が多い故に出版業界や映画が回っているのも確かだろう。とすれば、経済にとっては無駄遣いする人間が有益であるのと同じように、安易に感動する人間はそういった業界には有益な存在であると言える。それによってその業界の人たちは飯が食え、ものによってはメディアミックスなども通して大きな利益が生まれていくわけだ。
なるほど、じゃあ言い方変えるわ。そういった業界に奉仕するために、理屈なんかどうでもいいからとにかく感動する神経を持ちなさい。人が死んだら泣きなさい。その人が生き返っても泣きなさい。その人がまた死んでも泣きなさい。その人がまた生き返っても泣きなさい。たとえまた死んだり生き返ったりをくり返すんだと思っても泣きなさい。「どうせ死なないんだろ?」という疑問は悪です。精神の退廃の始まりです。そんな冷血漢にあなたはなってはいけません。人の命は大切です。だからそれが失われたときには大きな悲しみが伴われなければならないのです。失われたはずの命が戻ってきた時は理屈なんてどうでもいいから感動すべきなのです。なぜならそれは「奇跡」なのですから。あなたはその「奇跡」という事実を理屈よりも先に受け入れなければなりません。
まあこの辺で十分かな。これ以上やると関係ない人には不快だろうし。ところで、俺が何でこんな意地の悪い書き方しているかわかるだろうか?別に単なる嫌味で書いたのではない。それがほとんど「低レベル&悪質な宗教」であるという事実を提示したかったのだ(これについては、「奇跡による救済の話:感動モノと宗教」も参照)。まあ「それでもいい」という人は少なからずいるだろうし、それについて何も言うつもりはない。人は見たいものだけ見る生き物だから。ただ、いわゆる「感動的な作品」のうち少なからぬ数のものが、(ほとんど)宗教的な誤魔化しによって成立していることぐらいは頭に置いておく必要があると思うのである。
※
「出来が悪い」とはどういうものを指すのかも重要な問題だが、これだけで一つの記事が必要になるので別の機会に述べる。とりあえず、冗長と説明不足について考えたこの記事を参照。
※2
だからkanonは嫌いだし、それに感動する連中は基本的に信用ならないというのが俺の率直な見解である。なお、kanonへの批判は過去ログ「kanonを斬る」を参照のこと。
もっとも、だ。そういった安易に感動できる人間が多い故に出版業界や映画が回っているのも確かだろう。とすれば、経済にとっては無駄遣いする人間が有益であるのと同じように、安易に感動する人間はそういった業界には有益な存在であると言える。それによってその業界の人たちは飯が食え、ものによってはメディアミックスなども通して大きな利益が生まれていくわけだ。
なるほど、じゃあ言い方変えるわ。そういった業界に奉仕するために、理屈なんかどうでもいいからとにかく感動する神経を持ちなさい。人が死んだら泣きなさい。その人が生き返っても泣きなさい。その人がまた死んでも泣きなさい。その人がまた生き返っても泣きなさい。たとえまた死んだり生き返ったりをくり返すんだと思っても泣きなさい。「どうせ死なないんだろ?」という疑問は悪です。精神の退廃の始まりです。そんな冷血漢にあなたはなってはいけません。人の命は大切です。だからそれが失われたときには大きな悲しみが伴われなければならないのです。失われたはずの命が戻ってきた時は理屈なんてどうでもいいから感動すべきなのです。なぜならそれは「奇跡」なのですから。あなたはその「奇跡」という事実を理屈よりも先に受け入れなければなりません。
まあこの辺で十分かな。これ以上やると関係ない人には不快だろうし。ところで、俺が何でこんな意地の悪い書き方しているかわかるだろうか?別に単なる嫌味で書いたのではない。それがほとんど「低レベル&悪質な宗教」であるという事実を提示したかったのだ(これについては、「奇跡による救済の話:感動モノと宗教」も参照)。まあ「それでもいい」という人は少なからずいるだろうし、それについて何も言うつもりはない。人は見たいものだけ見る生き物だから。ただ、いわゆる「感動的な作品」のうち少なからぬ数のものが、(ほとんど)宗教的な誤魔化しによって成立していることぐらいは頭に置いておく必要があると思うのである。
※
「出来が悪い」とはどういうものを指すのかも重要な問題だが、これだけで一つの記事が必要になるので別の機会に述べる。とりあえず、冗長と説明不足について考えたこの記事を参照。
※2
だからkanonは嫌いだし、それに感動する連中は基本的に信用ならないというのが俺の率直な見解である。なお、kanonへの批判は過去ログ「kanonを斬る」を参照のこと。
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