「無宗教だから正月なんて関係ない」、「クリスマスとかハロウィンとか、そういう宗教が絡むことは全部避けないと無宗教じゃなくなっちゃうよ」だと・・・?ほう、宗教的なものを一切拒絶する宗教か。つまり「アカ」では・・・(・∀・)??
という訳で、今回もなかなかに面白い動画だったので掲載してみた訳だが、折角だから俺はここでなぜこの動画が笑いになるのか分析してみるぜ(コンバット越前並感)!
回りくどい話を抜きにして結論から言ってしまうと、これが笑いになる背景は、「宗教由来の儀礼を実施しても、それが宗派や教団への帰属意識に結び付かない」ということであり、かつ「それをネタにはするけど、その理由は真剣に考えない。なぜなら『みんなそうしてる』から」と言えるだろう。
より詳細に書けばこういうことだ。すなわち、儀礼及び信仰が帰属意識とは(正確にはしばしば)切り離された形で存在している、と。だから、それのような乖離現象が世に溢れているため帰属意識のない自分が参加してもさして疑問に思わないし、宗教を理由にそれを回避(しようと)すれば、神経質過ぎるとしてむしろ社会から浮いてしまいさえするのである(それはある意味で極度の潔癖症に近いものと言えるかもしれない)。
この動画が「笑い」になる構造は、およそこのような所だろう。
そしてもし、この構造を探求しようとするなら、よくある「日本人は本当に無宗教なのか?」といった、結局のところ最後は個人の感想の域を出ない問いを立てるのではなく、「我々は宗教的儀礼と信仰を連続したものと考えがちであるが、日本人についてはそれが当てはまらない場合が数多い。そのような社会状況はどのようにして生まれたのか?」という宗教社会学的なアプローチを採用するべきだろう(これは例えば偽史を分析する時に、ただそれが誤った歴史と評価するのではなく、そのような捏造行為にどのような歴史理解や意図があるのかを見ていくことで、当時の歴史観や権力構造などを把握しようとする行為と似ている)。
なぜ、「日本人は本当に無宗教なのか?」という問い立ては避けるべきなのだろうか。これについては何度も述べているが、改めて書くなら次の通りだ。例えばセム的一新教であれば、キリスト教なら洗礼、イスラームなら信仰告白といった具合に、外的に観察可能な、あるいは客観的な所属の基準が定めやすい。これは新宗教も同様で、該当教団への入信という形で評価が比較的容易である(まあこれも所詮は相対的なもので、ゆえにキリスト教には「再洗礼派」なんてものがあるわけだが)。
しかし日本で数の多い宗教に関してはどうだろうか?例えば浄土真宗や日蓮宗などの既成仏教なら、なるほど檀家への登録という仕組みは存在するが、それは「うちは~寺の檀家だから」といった家ぐるみの、あえて言うなら「自動的」なものである。もちろん、そうでない場合もあるが、そのケースでも、寺に墓を管理してもらう都合上で檀家となる必要がある、といったように、そこでは信仰という要素が欠落し(という表現が言い過ぎなら極めて希薄になっ)ているのである。
なお、これは一朝一夕に起きた出来事でもなければ、近代化(明治)以降に始めて生じたことですらない。というのも、江戸時代においては、キリスト教や仏教の異端を排除するために、宗門人別改帳というシステムが採用された。これは自身が異端でないことを示すために、浄土宗や天台宗、曹洞宗などの宗門に自動登録される仕組みである。これに登録されなければ、いわゆる「無宿人」として今で言えば無戸籍と同じになってしまうため、これを免れるという選択肢は実質的になかったと言っていい。
このように信仰とは無関連に自動登録され(それはもはや「役所」のごときものと言っていい)、さらには人が亡くなったら葬式を寺に依頼せねばならなくなったため、権力のお墨付きを得た寺院は法外な礼金を要求することもあり、今で言えば「葬式仏教」的なるものとして、当時から批判の声は少なからず存在したのであった。垂加神道など江戸時代の神道の隆盛はそうした仏教の「堕落」も背景としており、明治維新後ほどなくして生じた廃仏毀釈の動きは、こうした江戸時代に高まっていた嫌悪感や、旧体制の象徴としてのヘイトに立脚する部分も大きかった。
では、その明治時代に半ば国教化された神道(いわゆる「国家神道」)についてはどうだろうか?この場合、仏教以上に、そもそも所属とは何を指すのかすらよくわかっていない人も多いのではないかと思われる。それは仏教とは違って経典も教義もない上、ある地域にいれば~神社の氏子という具合に(こちらは江戸時代の仏教と同じく)ほとんど自動登録に近い状態で、さらに政府の公式見解では「非宗教」とされたことを想起したい。
この状況からすれば、現代人ならずとも、神道に帰属するとは一体どういうことなのか?と思う人間が多いのは何ら怪しむことではない。初詣に限らず村の祭りなどに神社が関わっていることも少なくないため、行事の形では神道と関わりを持つことになるが、そのような行事に参加したからといって、それは神道の信仰に直結しない。というのも、そもそも神道を信仰するとか(そもそも何をどのように信じるのだろうか?)神道の組織に属すること自体が、あまり理解されていない状況なのだから。
まあこの辺については、無宗教を自認する日本人が8割に及ぶ今日でさえ、仏教と神道の公証する信徒(氏子)の数を合計すると2億人を超える=日本の人口を超えるという喜劇的状況があり、この一事をとってみても、いかに教団への登録が信仰と乖離しているのかは火を見るより明らかなのだけど。
さて、話を「なぜ動画のような言行が笑いになるのか?」という冒頭の問いに戻そう。
日本人が「無宗教」を自認するのは、宗教を一切信じないというよりはむしろ、「特定宗派に属さないこと」だと言われることも少なくない。さらにそれはシンクレティズム(神仏習合)と結び付けられることも多いのだが、戦後間もなく(1952年)では自分の信仰する宗教が仏教だと答えた人の割合が5割を超えているという調査に鑑みれば、問題の本質は宗教的混淆ではなく、神道も仏教も所属の基準があやふやであり、さらに仏教は江戸時代の「国教化」とシステム化から来る形式化・形骸化、そして神道は明治政府による国教化(国家神道)による形骸化を経て宗教・教団への帰属意識と宗教儀礼が切り離された状況が長年続いた結果、戦前から宗教への帰属意識がかなり遊離したものとなりつつあったことが重要なのではないか(それは前述の1952年の調査で自身の宗教を仏教と答える人間は5割強なのに対し、「家の宗教」は仏教であると答えた割合は9割近くに及んだ、というギャップにも見出すことができる)。
そのような状況の中、戦後の都市化や核家族化によって共同体との距離が広がった上、信仰とは反比例することが統計データから判明している高学歴化も進んだ結果、宗教・教団への帰属意識はますます希釈化・消滅していき、もって慣習としての宗教儀礼だけが残った(ちなみに日本人で無宗教が増えたことを学生運動の広がり=共産主義の影響とみる向きもあるようだが、それに参加した割合が全体から見れば限定的であること、世代的な狭さ、そして宗教的行事への鷹揚さなども加味すると、首肯できる見解とは言い難い)。その結果、宗教儀礼は「宗教に根差すことは認識されながらも、同時に帰属意識からは切り離されたただのイベント」として、消費されるように到ったのではないだろうか(なお、宗教的儀礼への参加には共同体の中で生存するために必要な行動という側面もあることは、いわゆる「隠れキリシタン」について述べたこの記事などを参照されたい)。
つまり、「無宗教を自認する人間がこんなに増えているのに、イベント化した宗教行事が何で今も残っているのか?」という見方は実態と真逆であり、「イベントと化した宗教行事だからこそ、信仰が薄れてもさして気にせず参加でき、ゆえに今日でも生き残れている」とみなすのが適切なのではないか、ということだ(今では葬式仏教ですら直葬が増えてその牙城が崩れつつあるが、そこには確かに戒名などへの違和感はあるものの、単純に安いからという現代日本の経済衰退とコスパ感覚という、いわば宗教への忌避感というよりもっと即物的な事情が横たわっているように思われる。この点については戦後日本で宗教に拠らない葬儀を行った著名人を取り上げた新聞記事が『日本人無宗教説-その歴史から見えるもの』で紹介されているが、これは「禁令の存在=逸脱行為が一定数存在していたことの証左」とみるのと反対の考え方で、珍しいからこそわざわざ取り上げられたと考えるのが適切だと思われる)。
というわけで、何でもかんでもホモにする武蔵ちゃんにブチ切れる独歩師匠の図から始めて(笑)、日本人の宗教的帰属意識と宗教儀礼の乖離を、単にネタ化して消費するのではなく、その歴史的背景に関する一考察という形で論を進めてみた。このあたりは『近代仏教スタディーズ』でも信仰をビリーフだけでなく宗教行為の実践という側面からも考えみた方がよいのではないか、といった提言なども踏まえつつ考えみる必要はあるが、ともあれ客観的に観察される「日本人の過半が自身を無宗教と自認している」という現象に立脚して議論を深化させていくなら、やはり冒頭でも述べた「宗教的儀礼と宗教的帰属意識の乖離」と「そこまでの歴史的経緯の分析」こそが重要であると繰り返しつつ、この稿を終えたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます