Papers, Please.:いかにして人はシステムの歯車となるか、あるいは良心との葛藤について

2021-11-21 11:34:34 | ゲームよろず

 

少なくともコロナ禍が始まってから一度もゲームに触れていなかった俺を再びその世界に再び引き込んだのは、表題の「Papers,Please.」である。最初Vtuber百鬼あやめの切り抜き、次に天開司の実況動画で目にしたことがきっかけで始めたが、今回は(とりあえず10年近く前に発売されたの有名な作品ということは置いといてw)そのゲームシステムや魅力を書いておきたいと思う。

 

【ゲームシステム】

冒頭の動画にもあるように、国境の入国審査官となって書類が合っているかを検証するのが主な業務(ゲーム内容)であり、それによってお金を稼ぎ、家族を養うという実にシンプルなシステムとなっている。

 

これだけだと単なる作業ゲーのように思われるかもしれないが、治安維持や外交面の事情で日々書類は変化するためどの部分を見なければならないかが変わるし、体重が一致していない場合は相手が身体に物を巻き付けて密輸しているケースもある。その他、後には治安維持のために銃の使用(狙撃)すら任されるようになるなど、なかなかに気が抜けない。

 

また不備がある人間をそのまま通してしまうと累積で罰金が科されるが、毎日食費に暖房費、時には薬代もかかり、途中まではほとんど常に生活がギリギリの状況なため、生活費を稼ぐためにも通す人数は稼がねばならないが、一方でザルな対応をしていると困窮して家族を死なせることになってしまう。

 

こうして醸し出される緊張感が、昔懐かしいドット絵や全体的に暗い色合い、圧迫感のあるBGMとも相まって、独特な雰囲気を作り出しており、弛緩・マンネリ化することを上手く防ぐ作りになっている。

 

また、マルチエンディングであるのも関係しているが、必ずしも「書類が適合するものを通す=正義」、「適合していないものを通す=悪」という単純な構造にもなっていない。例えば、書類が全て揃っている人身売買者を通すのは善か?あるいは連続殺人犯に復讐しようとする書類が揃っていない父親を通すのは悪か?といった具合に。

 

もちろん、話がアルストツカという国とそのシステム、そして入国審査官という役割のみにフォーカスしている作品なら、話はまだ単純だったのだろうが、様々な形でそもそもアルストツカは善か?アルストツカのシステムに従うのは善か?という視点も反体制組織や他国という視点から提示されるため、プレイヤーは単なる作業としてのチェックを超えて、そこに倫理・道徳という視点を持たざるをえないし、これもまた本作に独特の臨場感・緊張感を与えていると言っていいだろう。

 

なお、このゲームは1日1日が短く、その日のチェック項目も作業開始前にチェックできるようになっているためプレイを区切るのが比較的容易で、1回20分ずつとかでもプレイできるのも時間がない人間にとってはありがたい設計と言えるだろう。

 

【作品の魅力(世界観)】

先に述べたゲームシステムの話とかなり連動するが、ゲーム性を持たせるための仕掛けや演出が、かなり現実世界のそれと重ね合わさって見えるところも、この作品が多くの人を惹き込む要因であると考えられる。

 

例えばチェック作業に緊張感を持たせる書類の変化を考えてみよう。これはもちろんゲームの難易度を挙げてチェック作業をマンネリ化させない効果があるが、現実世界に置き換えてみると、「お上」の朝令暮改で右往左往する「現場」という図式を見て取ることはたやすい(コロナ禍の日本でもしばしば見られた現象なので、これは記憶に新しいという人も多いだろう)。そして、そのような振り回される現場の苛立ちやウンザリ感はこのゲームをプレイしていれば容易に追体験できる、というわけである(もちろん、現実のそれはもっと長期間で時間もリアルの長さとなるため、深刻さにおいて等しいというつもりは毛頭ないが)。

 

あるいは、ゲームに緊張感を持たせる要素の一つ、生活の窮乏を想起してみてもよい。さすがに家族が丸一日何も食べないのは極端にしても、末期の共産主義圏を想起するなら、経済システムの偏りによって生活必需品を購入するために長蛇の列に並ばねばならない状況は有名な話であるし(作品内で言えば、暖房費さえ切り詰めないわけにはいかない!)、ゆえにこそ賄賂は潤滑油のように生活の一部となり、いつの間にかもらわないと回らない・くれないのはおかしいという思考様式が出来上がっていることに気づくだろう(ここでルールを徹底して守ろうとすれば、下手をするとヤミ市を否定して餓死した日本人裁判官のようになりかねないわけで。まあこの作品の場合人に賄賂を払って何かをしてもらうケースは多くないので、その点の煩わしさの感覚は強くないかもしれないが)。

 

このようにして、気が付けば歯車の一つとなり、矛盾にも目をつぶるような精神性を自然と身に着けている自分に気づくかもしれない(これもゲームという共犯関係・追体験のシステムゆえに成り立ちやすくなるものだ)。まあそうして袖の下を期待していると、隣人に密告されてブタ箱行きってルートがあるのも、実によく共産主義国の実態を反映していて感心してしまうわけだが(そういえば、1980年代の東ドイツにいたという日本人の方と話した時、下手に外国人と会話をしているとスパイ容疑で密告される恐れがあるため、自分が話しかけても誰もが知らないふりをしていた・・・という話を思い出した。要はちょっとでも当局に睨まれる可能性を無くすために、ノイズとの接触を途絶することで歯車の一部になりきっていることを皆アピールしていたわけだ)。

 

【追体験と理解】

このブログにおいては、「全体主義の起源」・「イェルサレムのアイヒマン」・「夜と霧」「セカンドハンドの時代」・「『空気』の研究」など、全体主義や権威主義の元での人々の行動様式については様々な著作を取り上げてきた(映画でも、「THE WAVE」・「es」・「帰ってきたヒトラー」など)。

 

もちろんこういった作品は非常に重要であるのだが、しかし一方で、どこまでいっても結局「外的に受動的に与えられるもの」に過ぎないという点は見逃すことができない。ゆえにそれらだけでは、つまるところ対岸の火事という認識から免れることはできないし、それゆえ「何という唾棄すべき行動・言動だろうか。己はそのような悪行に手を染めはしない」という己を過信した錯覚を容易に持ってしまうのである。

 

自分は別に経験至上主義者ではないが、人間の想像力や理解力というものには相応の限界と個人差があるのであって(このことを忘却させるものの一つとして、「共感」なるマジックワードを批判的に取り上げている)、その巨大な溝を埋める一つの有効な手立ては、本作のようにゲームという形で自分がその立場・役割を追体験するということが極めて重要だと考える(展開によっては自分が全く逆の立場になるという演出も、作者がこのような視点をある程度意識して作成していることを伺わせる)。

 

以上のような理由で、全体主義的・権威主義的世界で生き延びることを求められ、同時に自分が従っているシステムそのものへの疑いも様々な形で提示されるPapers,Please.は、極めてinterestingのみならず、instructiveな作品だと言えるのではないだろうか。

 

すでに古典と呼べるものとなりつつあるかもしれないが、美麗な画像や複雑なゲームシステムでなくても多くの人がそれに強く心を動かされる、という意味でゲームの可能性を改めて示した作品として、プレイを強くお勧めしたい。

 

【余談】

発表から数年後には短編映画も作成されている。こちらも「業務と生活」・「システムか良心か(実際にはその片方のみが真となるケースは多くない)」・「善意が善き結果をもたらすとは限らないという逆説」(フランス革命の記事でも触れた通り)といった精神性がよく反映されているので参考までに。

 

 


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