大学三年の時のことだが、宗像の小覇王(先輩)の家で花田少年史の最終話が流れていた時、彼が「お前こういうの鼻で笑いそうだよね」と言ったのを今でも覚えている。すでに何度か引用している俺の大学時代の嘲笑主義をよく知っている人だからこその発言だが、ここにある種の誤解が存在する。
それは簡単なことだ。
俺はハッピーエンドそのものを嘲笑うのではなく、ハッピーエンドのためのハッピーエンド、つまりはその中身のなさをこそ嘲笑うのだから(結論の過程を重視、情報への強迫観念、kanonを斬る、月姫のエンディングの批評性、感動的なフレーズによる誤魔化し)。
そのような態度がいかにして生まれたかは「宗教と思索」「世界への敵意と滅びの希求」などで書いているため繰り返さないが、その根底にあるのが嘲笑そのものというよりもむしろ真実への拘泥(オールドファッション→覚書の画像)であることに気がつかなければ、永遠にこのスパイラルを見抜けないし、またそれに捉われ続けることになるだろう。
それは簡単なことだ。
俺はハッピーエンドそのものを嘲笑うのではなく、ハッピーエンドのためのハッピーエンド、つまりはその中身のなさをこそ嘲笑うのだから(結論の過程を重視、情報への強迫観念、kanonを斬る、月姫のエンディングの批評性、感動的なフレーズによる誤魔化し)。
そのような態度がいかにして生まれたかは「宗教と思索」「世界への敵意と滅びの希求」などで書いているため繰り返さないが、その根底にあるのが嘲笑そのものというよりもむしろ真実への拘泥(オールドファッション→覚書の画像)であることに気がつかなければ、永遠にこのスパイラルを見抜けないし、またそれに捉われ続けることになるだろう。
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