2011/4/27
<終末前書き>
2005年当時は徒手空拳だたが、今や嘲笑~や君望の記事からメタ言説や前提への無自覚さを言及したのでかなり論じやすく。2000、引き金、その感想自体はわかる。しかし、なぜそういう人たちが徹底的に遠景として囲い込まれてるかを全く意識してないのか。神の視点から終末の絶対性を知ってるにすぎないという批判ならまだ理解でき。読み能力低さよりむしろ、アルマゲドン的行動・思考様式への埋没。わかってやってるとは自らの前提に自覚的(再帰的)であることに他ならぬ。にもかかわらずこの体たらくはどうだ?彼らの言葉は上辺だけ→「所詮エロゲー」以下の思考力。
<もやし終末葬式浦和鎌倉>
あえてこういう言い方をすれば、抑圧の対象がある時はそれがエクスキューズにできる(共有が可能)。抑圧が少ない状況になると、「確かにそういう要因もあるけど、でも結局選んだのは君だよね?」という形で帰属処理がなされる。そんな社会においては、『なにがあろうと私は私だ』という日本でしばしば間違えられるアイデンティティの話をしても、『そうだね。で?たがら何?』と言われて終わり。オクフェス→内面化された規範から自由になれ→ニーチェ的でわかる。・・・などと書いているが、2015年の今であれば、「自由だとか実存だとかもシステムの産物にすぎない」とも言っていることだろう。そうすれば、先の「終末の過ごし方」に対するプレイヤーの反応も、アルマゲドン的ドラマツルギーによって思考が閉塞していることに気づかぬナイーブなものにすぎない、と断じる前のパラグラフともつながるのであるが。
<久々に成ル>
週休。採用帰りに成ルへ寄る。サーモンないので、何かのがけ大盛にライス、ネギパッチョでちょっと豪華な晩飯を食った。サーモン一人前にライス二杯とワンドリンクで二千円か。全然ありだな。
<初音ミク>
初音ミク現象を冷淡にながめていた。しかし今日ミクランカーを見て回心した。オカネ!とかネギを取ったときのオオオオオ♪とかむっちゃかわええ。替え歌自体も上手いしね。ミク教へ入信。一年分のネギを納め奉り、自身はネギを断ちて沐浴斎戒し、毎日五回の礼拝。
<聖典>
フラフラ。虎穴でボボボ初単行本。「新世界」のツンデレナミにハマる。買わないことがいやない[反語の一部を省略した新しい形式の開発]。しかしZUKI樹も見つけてしまった。ニクドレで新原に惚れた弱み。ショートカット、中学の剣道部に同じビジュアルの天然娘がいたなあ。閑話休題。そんな重患!?これまたどうして買わないことがあ。愛のある重患。しかし二冊か、確かに最近使う暇なかったが…心を沈めるんだ。アタラクシア、哲学、池田晶子、オラクル、オラチオ、フェラチオ、ボッカチオ、デカメロン、爆乳…というわけで両方購入。我が家のゴミバ子に安寧の時は訪れないらしい。
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