多摩川を渡り、雫のop曲を聞きながら「野川」の方面へ歩き続ける。
さて、「内面化された規範の相対化」の具体例について。
俺が世界に対する滅びの希求を持っていたことは何度か触れてきたし、またそれがいかにして崩壊したかも述べた。とはいえ、そこでの説明はやや誤解を与えるものだったように思える。より正確な説明を期すならこうだ。
ニュースなどで様々な不正や悪行を見てそれに怒りを覚える。
↓
なぜこのような事がまかり通るのか?
↓
根本的な原因を求めて遡行
↓
世界全体が腐敗しているという結論
↓
世界は存在する価値がない
滅びの希求とは、表現こそ仰々しいものの、まあこんな単純な構造に基づいていた(あるいは「学生らしい潔癖さ」と感じる人もいるかもしれない)。そして高校1年だか2年の時、同じような構造で世界の腐敗というやつに思いを巡らしていた時、ふと疑問に思った。「なぜ世界が腐敗していると滅びなくてはならないのか?」と。
「腐敗した世界は自然に滅亡へと向かう」などと推論するのはまだわかる。しかし、滅び「なくてはならない」とはどういうことか?
↓
論理ではなく感情(怒り)に基づいている。
↓
なぜ怒るのか?
↓
「世界に正しくあってほしい」という前提が存在し、それにそぐわないから。
↓
その前提はいかなる根拠に基づいているか?
↓
根拠はない。つまり自分の願望にすぎない。
↓
滅びの希求は個人的な好悪の問題に過ぎない
↓
一体何の権利があって、個人的な願望を他人に押し付けるのか?その態度は、自分が批判する性善説や性悪説のそれと何が違うのか?また自分自身が戦略的・合理的な提案ならまだしもくだらん願望を押しつけられるのを蛇蝎のように嫌うが、それを他人にやるってのはどういうわけだ?
↓
そんなに嫌なら自分だけ死ね。人を巻き込むな。
とまあ滅びの希求の存立基盤を考えてみたら、実は単なる嗜好の問題に過ぎなかったと判明した次第(これが相対主義と親和性が高いことは容易に理解されるだろう)。さらにその後、「虜2」のプレイを通じて狂気への傾倒もまた吹き飛び、最終的には精神的荒野を抱えた生ける屍だけが残りましたよと(ある意味廃人の作り方w)。
「規範」という表現を考えれば誰かから与えられて受肉化した具体的な基準を持ち出した方がピンとくるかもしれないが、極端ながらこれも「内面化された規範の相対化」の一例というわけで(世界がある一つの法則性に収斂されるものとする思想にも実は明確な根拠はない、という話。より正確に言えば、既成事実でも何でもないのに、あたかもそのような法則性が存在するかのように考えがちであるということ。因果応報などもその例)。
さて、以前「雫―痕、月姫―Fate:滅びの希求と作品の印象」てな記事を書いて雫の方が印象に残っているのは滅びの希求が関係しているんじゃないかと書きはしたのだが、雫をプレイした高校2年(※)は今述べたような状況だったため、安易に滅びの希求を作品の評価に適用することはできない(むしろoneの主人公の意味不明な存在の希薄化の方がよほど近似性がある)。確かに、滅びの希求を除外したとしても、例えば学校という舞台設定の閉塞感は当時自分のいた環境と類似しているだとか、痕は狂気の原因が「血」であるため主体性がなく、ゆえに狂気が薄い(軽い)印象を受けるといった要素を抽出してくることはできる。しかし、少なくともプレイしている当時はその辺を強く意識したことはないため、どうも後付け的な印象がぬぐえない。ん~、あるいは雫が印象に残る理由を自分の思想的来歴に求めるより、痕が「よくできているけど、ただそれだけ」という印象しか与えない理由を考えてみた方がいいのかもしれない。まあいずれにしても、結論が出たらもうけものって感じの疑問だわな。
と、路地裏を歩いていたら体育館みたいなところに行きあたった。じゃあここらで等々力方面に引き返すか…
※
正確には高1の1月から高2の6月の間。前者はPCを購入した時期。後者は雫の曲を録音したテープを済々黌[高校版早稲田みたいなトコw]剣道部の夏合宿に行くヤツに貸すとか貸さないとか言っていた記憶があるので、おそらくこの辺までにはプレイしているはず(余談だが、前に紹介した「黒山羊」もこの時期に録音している)。
さて、「内面化された規範の相対化」の具体例について。
俺が世界に対する滅びの希求を持っていたことは何度か触れてきたし、またそれがいかにして崩壊したかも述べた。とはいえ、そこでの説明はやや誤解を与えるものだったように思える。より正確な説明を期すならこうだ。
ニュースなどで様々な不正や悪行を見てそれに怒りを覚える。
↓
なぜこのような事がまかり通るのか?
↓
根本的な原因を求めて遡行
↓
世界全体が腐敗しているという結論
↓
世界は存在する価値がない
滅びの希求とは、表現こそ仰々しいものの、まあこんな単純な構造に基づいていた(あるいは「学生らしい潔癖さ」と感じる人もいるかもしれない)。そして高校1年だか2年の時、同じような構造で世界の腐敗というやつに思いを巡らしていた時、ふと疑問に思った。「なぜ世界が腐敗していると滅びなくてはならないのか?」と。
「腐敗した世界は自然に滅亡へと向かう」などと推論するのはまだわかる。しかし、滅び「なくてはならない」とはどういうことか?
↓
論理ではなく感情(怒り)に基づいている。
↓
なぜ怒るのか?
↓
「世界に正しくあってほしい」という前提が存在し、それにそぐわないから。
↓
その前提はいかなる根拠に基づいているか?
↓
根拠はない。つまり自分の願望にすぎない。
↓
滅びの希求は個人的な好悪の問題に過ぎない
↓
一体何の権利があって、個人的な願望を他人に押し付けるのか?その態度は、自分が批判する性善説や性悪説のそれと何が違うのか?また自分自身が戦略的・合理的な提案ならまだしもくだらん願望を押しつけられるのを蛇蝎のように嫌うが、それを他人にやるってのはどういうわけだ?
↓
そんなに嫌なら自分だけ死ね。人を巻き込むな。
とまあ滅びの希求の存立基盤を考えてみたら、実は単なる嗜好の問題に過ぎなかったと判明した次第(これが相対主義と親和性が高いことは容易に理解されるだろう)。さらにその後、「虜2」のプレイを通じて狂気への傾倒もまた吹き飛び、最終的には精神的荒野を抱えた生ける屍だけが残りましたよと(ある意味廃人の作り方w)。
「規範」という表現を考えれば誰かから与えられて受肉化した具体的な基準を持ち出した方がピンとくるかもしれないが、極端ながらこれも「内面化された規範の相対化」の一例というわけで(世界がある一つの法則性に収斂されるものとする思想にも実は明確な根拠はない、という話。より正確に言えば、既成事実でも何でもないのに、あたかもそのような法則性が存在するかのように考えがちであるということ。因果応報などもその例)。
さて、以前「雫―痕、月姫―Fate:滅びの希求と作品の印象」てな記事を書いて雫の方が印象に残っているのは滅びの希求が関係しているんじゃないかと書きはしたのだが、雫をプレイした高校2年(※)は今述べたような状況だったため、安易に滅びの希求を作品の評価に適用することはできない(むしろoneの主人公の意味不明な存在の希薄化の方がよほど近似性がある)。確かに、滅びの希求を除外したとしても、例えば学校という舞台設定の閉塞感は当時自分のいた環境と類似しているだとか、痕は狂気の原因が「血」であるため主体性がなく、ゆえに狂気が薄い(軽い)印象を受けるといった要素を抽出してくることはできる。しかし、少なくともプレイしている当時はその辺を強く意識したことはないため、どうも後付け的な印象がぬぐえない。ん~、あるいは雫が印象に残る理由を自分の思想的来歴に求めるより、痕が「よくできているけど、ただそれだけ」という印象しか与えない理由を考えてみた方がいいのかもしれない。まあいずれにしても、結論が出たらもうけものって感じの疑問だわな。
と、路地裏を歩いていたら体育館みたいなところに行きあたった。じゃあここらで等々力方面に引き返すか…
※
正確には高1の1月から高2の6月の間。前者はPCを購入した時期。後者は雫の曲を録音したテープを済々黌[高校版早稲田みたいなトコw]剣道部の夏合宿に行くヤツに貸すとか貸さないとか言っていた記憶があるので、おそらくこの辺までにはプレイしているはず(余談だが、前に紹介した「黒山羊」もこの時期に録音している)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます