それ何て唯物論?

2017-10-23 12:17:33 | 宗教分析

神社に行っては礼拝し、葬儀は仏式を用い、あまつさえクリスマスさえ祝うとは一体どんな唯物論だというのか?マルクスやフォイエルバッハは元より、デモクリトスやエピクロスですら聞いたことがない(一方で、初詣とクリスマスを同時に行うから宗教的に適当だと評価するのも、ただイベント化したそれらに的外れな宗教的意味合いを持たせてしまっているという意味で不当であろう)。

 

かかる状況についてよくよく考えずに「日本人の無宗教は共産主義(唯物論)が原因だ」などと言っている人は、ただ日本人の「無宗教」という現象を説明する際に、手近にあるいかにもそれらしい特徴を持つ要素(しかしながら実はただの思い込み)に飛びついているだけのように感じられる。せめて共産主義が支配的になったロシア中国ヴェトナムなどと比較対象してから、日本でごく一時期人気のあった(という俗な言い方をあえてするが)共産主義・唯物論がどのような影響を及ぼしたのか論じなければ、ただの思い付きの域を全く出ないと思うのだが。

 

先に挙げた三国は共産主義国となり、政策にまでその影響が及ぼされた国々だが、それでも日本よりは無宗教と自己認識する人間は少ない(もちろんこれは、特にロシア・中国の場合は地域的・民族的多様性も考慮に入れる必要があるが)。であるならば、日本人の「無宗教」について共産主義や唯物論を持ち出すことは根拠として極めて弱く、もしそれを仮説とするならば、「なぜ共産主義国家でさえ無宗教は我々ほど支配的にならなかったのに、共産主義が一時の泡沫として消え失せたはずの日本で直接的な影響を持ち得てしまったのか?」という具合に、アメリカ的物質至上主義と同様の問いが立てられるべきであろう(言い換えると、「唯物論・共産主義の影響が強い→無宗教」という図式は成り立たない。まあそもそも冒頭に述べたように、日本で唯物論がきちんと理解されているか自体相当疑わしいのだが。これは次の記事でも少し触れる)。その答えとして、それが伝わった段階ですでに既存宗教が形骸していた、というものが考えられる。たとえば、キリスト教禁教を徹底しようとする江戸幕府と仏教側の共犯関係で成立した寺請制度はイエ制度を補完する仕組みでもあったが、それゆえに戦後のヒトの移動や核家族化で解体が進み、「イエの宗教」であった仏教への宗教的帰属意識が剥落し、正しい意味で「葬式仏教」=ただの慣習と化した。そして神道は、神仏分離と廃仏毀釈で修験道や各種の講などの民間信仰・信仰団体が大きく改変・毀損されたばかりか、「宗教ではない」と公式に決められることで帰属場所ではなくなった。これは双方とも何をもって信徒になるかの基準が曖昧であったことも大きいが、ともあれ制度化・形骸化の中でゆるやかに「ただの上澄み」と化していったからこそ、アメリカ的物質至上主義などの影響を(そこへの対抗拠点となることもなく)まともに受けることとなり、無宗教と自己認識する日本人が増えていった・・・という具合に。

 

このようにして比較と経年変化の観察をしなければ、浅薄な日本人論か、思い付きのスケープゴート作りにしかならないのではないか、と思う次第である。

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