性的虐待と被害者叩きの構造

2024-09-26 12:12:25 | 日記





性的虐待を逃れてシェルターに来た女性が、不眠症なのに処方された睡眠薬を飲まずに溜め込む理由、か・・・なかなか悲惨な話やな。


ところで、私がこの動画で興味を引かれたのは、虐待をする親類から逃げられない構造をちゃんと動画で説明もしてるのに(何だったら自殺を思い止まらせるのに家族を連想させるのは逆効果とまで言っている)、それでも被害者叩きのコメントをしてる連中が散見されることだ。


正直頭は大丈夫か?と思うが、まあ「日本語が読める・聞き取れる」というのと、「その意味内容や発言意図を正しく読み取れる」ことの間には大きな懸隔があるから、こういう反応が出ることは想定した上で(つまりセカンドレイプの構造と抑止まで踏まえた上で)、性的虐待に関する衆知と対策が必要と考えるべきだろう(なお、今回は動画の内容に沿って男が加害者、女性が被害者であるケースを話しているが、それが逆転することもあるし、また男→男のような場合もある点、注意を喚起しておきたい)。


今回の件はおそらく縁もゆかりもない人間だからそんな無責任な反応をすると思われるかもしれないが、現実には相談した身内が味方になるどころか隠蔽を始めたり、あるいは問題を生じさせたお前が悪いなどと被害者を非難し始めるからこそ、事態は深刻で厄介なのである。


「親は子供の味方であるのが当たり前だ」という思い込みをしているお歴々には俄には信じがたい話かもしれないが、実はこのような反応をする理由説明は難しくない。


一言で言えば「認知的不協和」や「認知バイアス」ということになるが、相談相手(被害者)が自分の娘で、加害者が自分の夫や息子である場合、片方を悪にするのは加害者に対する自分の愛情と著しいコンフリクトを生じさせる(もちろんそこには、現在の生活を守りたいという保身的な感情も含まれるかもしれない)。


その葛藤に向き合うことを拒絶する意識的・無意識的反応から、問題をなかったことにするために被害者へ隠蔽・黙秘を強いたり、あるいはどこかに責任をなすり付けないと納得できない感情から、(加害者を非難することからは逃避しているので)被害者にこそ問題があるのだ、というすり替えの反応が生まれるのである(レイプされた娘をいたわるのではなく、夫を誘惑した「泥棒猫」のようになじるといった驚愕の言行は、そうして生まれてくるわけだ)。


このような問題や構造を扱った作品は数多くあるが、このブログで取り上げたものでいえば、映画「明日、君がいない」や漫画「ドライアウト」、あるいはゲームの「Lisa」などがある。


「明日、君がいない」であれば、兄に強姦され相談できずに抱え込む学生が登場するし、鬼束直「ドライアウト」は父親による娘への性的虐待だが、そこでは母親が傍観者から、己の女性性を否定されたことによる娘への攻撃者になる場面が描かれている。そして「Lisa」は、ゆめにっき的な世界描写を土台にしながら、そこに性的虐待の要素を前面に出した作品となっている(なお、それによる「呪い」が、女性の生まれない「Lisa the painful」の世界へと繋がっていくわけだが)。


ともあれ、この問題とその対処については、人間の不完全な、あまりに不完全な認知の構造を踏まえた上で、その衆知や相談機関の充実を行っていく必要がある、と述べつつこの稿を終えたい。

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