いよいようみねこも第七話っすか。うみねこで8/15(終戦の日)に発売ってのはどうも含みがあるように思えてしまうね。まあ今までが8/16でずっときたことだし、それにコミケ会場での発売日は8/14だから、単なる偶然なんだろうけどw
さて、予想通りというか、冬に発売された第六話はとりあえずプレイ終了だけしてその後は積んだままになっており、せいぜい八城十八に食指が動いて自分の年上好き(or姉好き)を確認したくらいかwなので、発売直前に推理内容を確認する…といったことがこの記事の目的ではない。まあその辺の話は「うみねこにハマれないのは…」で書いた通りなんだけど、この記事の内容が少しばかり誤解をされているんではないかと思うので、この場で補足しておきたい(本来は「ひぐらしのなく頃に~とあるプレイヤーの証言~」の続編の後に書くつもりだったが、タイムリミットが来てしまったため)。
諸事情あってうみねこの推理には今一つハマり込めない、というのは今でも全く変わっていない(それが作品の質の問題だけでないことも言及した通り)。しかしその一方で、テーマや演出面に関しては様々な面で興味を引かれている。例えばひぐらしの頃から沙都子などに関連して何度も言及されてきた楼座の虐待の問題(鷹野を翻弄した偶然性に言及していない点で今見るとクソみたいな内容だが、一応「ひぐらし祭囃し編の裏テーマ」を参照。ついでに脱線すると、その偶然性は梨花との対比をなしており、賽殺し編にも繋がっている)。また、同じく楼座関係では処女云々の話は「かんなぎ」に関する一連のくだらない騒動を想起した(まあ要するに、処女をいまだにありがたがっとる連中が少なからずいるらしいっつー話ですよ)。
その他、特に取り上げるべきはキャラクターの扱い方だろう。先の「うみねこにハマれないのは…」でも言及しているが、うみねこには「この物語はどうせ幻想に決まってます。実在する如何なる個人、団体、地名、事件とも関係あるはずもありません」という挑戦的な前置きがなされていると同時に、それでもなおキャラクターに現前性を見出さずにはいられないプレイヤーの心性を突いた演出が散見される。それは例えば、キャラクターをそのまま「駒」に見立ててみたり(これがひぐらしのそれをよりラディカルにしたものであることは言うまでもない)、煉獄の七杭やさくたろうの存在の否定を痛みを伴う死として描いてみたり(これは魔法肯定派へ引きこむ策略でもある)、といった表現に表れている。また、ベアトリーチェとの敵対がいつの間にかその保護・共闘になっているというずらし方にも注目すべきだろう。これは、プレイヤーの錯乱のみならず、ひぐらしで見られた「人為VS祟り」の二項対立(実際には祟りとされているものをいかに人為で説明するか、という方向性)から抜け出すといった意味もあるだろう(まあ六話で見られたベアトリーチェに同情させるための描写はあからさまずぎて正直辟易したが、まあオドオドしているベアト萌えってことにしておこうw)。そういった一連の演出は、「ルールの擬人化」という意味で物理法則と(人格)神、偶然性と神の罰の連結を思わせて興味深い。またキャラクターの現前性については、「電脳コイル」や「君が望む永遠」の問題意識とも繋がるものであり、これまた興味の尽きないところだ(「なぜ感情移入できないのか」、「沙耶の唄覚書 結(ネタばれ注意)」も参照)。
とまあこのように、推理はともかく演出などは私の問題意識と通じるところもあって、うみねこは単に惰性でやっているゲームというわけではないのは理解してもらえただろうか。では最後に、「この物語はどうせ幻想に決まってます。実在する如何なる個人、団体、地名、事件とも関係あるはずもありません」という冒頭の文言について触れておきたい。
ひぐらしのなく頃にをプレイしてきた人にとっては、この言葉の出てきた背景を推測することはそれほど難しくないと思う。特に事件の背景が明らかになった皆殺し編でその設定にかなりの突っ込みがなされていた事は、祭囃し編での言い訳がましいノモンハン事件やら道路工事の説明からも読み取れる。まあ作者としては、現実との接点や整合性ばかり問題にする評価にほとほと嫌気が指してそういう文言から始めた、ということなんだろう。もっとも、「人為VS祟り」という図式や、「正解率1%」の煽りなどによって人気が出た面は確実にあるので、正直自業自得だとは思う。もう少し説明すると、前出の「あるプレイヤーの証言」でも述べたように、推理する以上「人為派」にならざるをえなかったという背景と、またその立場を採る以上人間世界のリアリズムを重視せざるをえなかったという事情を考えれば、プレイヤーがそのようなきちんとした設定を求めるのにはある程度必然性があり、作者としてはそこを突かれた場合の準備をしておいてしかるべきだったということだ。逆に言えば、そういう突っ込みに対して、「始めからホラーだった」とか言って正当化しようとする田吾作プレイヤーは話にならんということだ。あるいはもしかして、彼らは仮にそのような反論を作者がしたらむしろ恥を曝すだけ、という事実に気付いてないのだろうか?だとすれば、げに恐ろしきは信者の思考停止なり、という話である。
とはいえ、だ。
設定がおかしいとか、それが現実を反映していないという理由だけで作品にダメ出しをするのもまた、木を見て森を見ない行為ではないか?まあ一応歴史学科にいた身として、「史実」を無視しまくった設定を見るととりあえず突っ込みたくなったりする気持ちは理解できる。しかし、それだけで切って捨てれる妥当性って何なのだろう。もちろん、現実に即した設定でなければリアリティが失われプレイヤーを巻き込めなくなる、といった話はわかる。しかし繰り返すが、もしそれだけで作品を否定しようとするのなら、その部分が絶対的・徹底的に重要であることを示す必要があるように思われる。でなければ、その評価は単なる嗜好の問題であって、まるで一般性を持たない。まあこれはひぐらしのレビューに限ったことではなく、今まで見てきたレビューのほとんどは、批判はするけどその批判がそもそも批判として成立するのか否かっていう吟味が欠落しているような気がする(例えば「悪人をムカつく奴だと評価するのは作品にとっては褒め言葉だ」とかね)。もしかすると、相対主義が血肉化していないため、梯子を外されることをあまり想定していないのかもしれない。ちなみに私の場合、そういう思考でレビューを構築する(別の言い方をすれば臆病な)ので、ひぐらしの謎の集団の設定についても推理が結局「何でもあり」になるからダメだ、と理由をあげて批判したし(「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」、「ひぐらしとルール」)、罪滅し編の戦闘描写については、それがFateなどへのオマージュなどであることには触れつつも、祟殺し編での圭一の決意や犯行の重みがなくなるという理由で問題視したのであった(「戦闘力がテーマを挫折させる」、「ひぐらし祟殺し編再考」)。また鬼隠し編の真相を批判し未だに納得もしてないのは明らかに本編からは推理不可能だからだし(まあレナや魅音が本編でも考えなしの白痴として描かれているのならまだわかるが)、澪尽し篇のエンディングを激しく批判したのも、それが「殺人の否定」という(作者がわざわざ強調するほどに)ひぐらしにおいて重要なテーマと抵触する内容だったからだ。
このように、私は批判を書くときは「なぜそれが批判たりえるのか?」ということを重視してきた。そうでなければ、繰り返しになるが、それは評者の個人的願望の域を全く出ないからだ。これは「沙耶の唄」や「終末の過ごし方」、「クロウカシス」のレビューなどにも共通するし、逆に嗜好の問題だと思ったらそれが嗜好であることを示し、かつそのような嗜好が出てきた原因を分析してもいる(最近ので言えば「デスノート」がそれだ)。このような批判に要求される姿勢も考えると、ひぐらしの設定の問題点をそのまま作品の否定にまで結びつけてしまうのは、もちろん個人の嗜好としては自由だが、妥当性のある批判・批評という点では説得的ではないと言わざるをえない。より詳しく言えば、連続殺人事件に関して人間の法則性を見出そうとする思考様式を利用したこと、祟殺し編の殺人否定の演出方法、ループやカケラ紡ぎを通じたプレイヤーと作中人物を重ね合わせる工夫(ここには掲示板を通じた双方向的な製作という側面も含まれる)、ループによる反復可能性と闘いの終焉による反復不可能な生の到来、そして反復不可能性でさえも結局は一つのカケラに収斂するという演出、といった特徴や斬新さがあるにもかかわらず、設定の問題点だけで切り捨てるのはいかなる根拠によるのか、ということだ。もしそれを示せないのなら、繰り返しになるがそれは個人的嗜好・願望の領域を全く出ないということである。
以上のような観点で行くと、何とか正当化しようとする信者も木を見て森を見ない人たちも、自分の嗜好に埋没して思考停止しているという点では、私には全く同じに見える。そしてそういう姿を見るたびに、まったく「シンパ」とか「アンチ」とか、そのカテゴリーごと一緒に焼失すればいいのにと、思考的閉塞を嫌う私はいつも思うのである。
少し話が逸れてしまったが、まあいい。
思えば7話は、ひぐらしで言うと批判の噴出した皆殺し編にあたる。うみねこはそこでどのような手を差してくるのか、楽しみにするとしよう。
さて、予想通りというか、冬に発売された第六話はとりあえずプレイ終了だけしてその後は積んだままになっており、せいぜい八城十八に食指が動いて自分の年上好き(or姉好き)を確認したくらいかwなので、発売直前に推理内容を確認する…といったことがこの記事の目的ではない。まあその辺の話は「うみねこにハマれないのは…」で書いた通りなんだけど、この記事の内容が少しばかり誤解をされているんではないかと思うので、この場で補足しておきたい(本来は「ひぐらしのなく頃に~とあるプレイヤーの証言~」の続編の後に書くつもりだったが、タイムリミットが来てしまったため)。
諸事情あってうみねこの推理には今一つハマり込めない、というのは今でも全く変わっていない(それが作品の質の問題だけでないことも言及した通り)。しかしその一方で、テーマや演出面に関しては様々な面で興味を引かれている。例えばひぐらしの頃から沙都子などに関連して何度も言及されてきた楼座の虐待の問題(鷹野を翻弄した偶然性に言及していない点で今見るとクソみたいな内容だが、一応「ひぐらし祭囃し編の裏テーマ」を参照。ついでに脱線すると、その偶然性は梨花との対比をなしており、賽殺し編にも繋がっている)。また、同じく楼座関係では処女云々の話は「かんなぎ」に関する一連のくだらない騒動を想起した(まあ要するに、処女をいまだにありがたがっとる連中が少なからずいるらしいっつー話ですよ)。
その他、特に取り上げるべきはキャラクターの扱い方だろう。先の「うみねこにハマれないのは…」でも言及しているが、うみねこには「この物語はどうせ幻想に決まってます。実在する如何なる個人、団体、地名、事件とも関係あるはずもありません」という挑戦的な前置きがなされていると同時に、それでもなおキャラクターに現前性を見出さずにはいられないプレイヤーの心性を突いた演出が散見される。それは例えば、キャラクターをそのまま「駒」に見立ててみたり(これがひぐらしのそれをよりラディカルにしたものであることは言うまでもない)、煉獄の七杭やさくたろうの存在の否定を痛みを伴う死として描いてみたり(これは魔法肯定派へ引きこむ策略でもある)、といった表現に表れている。また、ベアトリーチェとの敵対がいつの間にかその保護・共闘になっているというずらし方にも注目すべきだろう。これは、プレイヤーの錯乱のみならず、ひぐらしで見られた「人為VS祟り」の二項対立(実際には祟りとされているものをいかに人為で説明するか、という方向性)から抜け出すといった意味もあるだろう(まあ六話で見られたベアトリーチェに同情させるための描写はあからさまずぎて正直辟易したが、まあオドオドしているベアト萌えってことにしておこうw)。そういった一連の演出は、「ルールの擬人化」という意味で物理法則と(人格)神、偶然性と神の罰の連結を思わせて興味深い。またキャラクターの現前性については、「電脳コイル」や「君が望む永遠」の問題意識とも繋がるものであり、これまた興味の尽きないところだ(「なぜ感情移入できないのか」、「沙耶の唄覚書 結(ネタばれ注意)」も参照)。
とまあこのように、推理はともかく演出などは私の問題意識と通じるところもあって、うみねこは単に惰性でやっているゲームというわけではないのは理解してもらえただろうか。では最後に、「この物語はどうせ幻想に決まってます。実在する如何なる個人、団体、地名、事件とも関係あるはずもありません」という冒頭の文言について触れておきたい。
ひぐらしのなく頃にをプレイしてきた人にとっては、この言葉の出てきた背景を推測することはそれほど難しくないと思う。特に事件の背景が明らかになった皆殺し編でその設定にかなりの突っ込みがなされていた事は、祭囃し編での言い訳がましいノモンハン事件やら道路工事の説明からも読み取れる。まあ作者としては、現実との接点や整合性ばかり問題にする評価にほとほと嫌気が指してそういう文言から始めた、ということなんだろう。もっとも、「人為VS祟り」という図式や、「正解率1%」の煽りなどによって人気が出た面は確実にあるので、正直自業自得だとは思う。もう少し説明すると、前出の「あるプレイヤーの証言」でも述べたように、推理する以上「人為派」にならざるをえなかったという背景と、またその立場を採る以上人間世界のリアリズムを重視せざるをえなかったという事情を考えれば、プレイヤーがそのようなきちんとした設定を求めるのにはある程度必然性があり、作者としてはそこを突かれた場合の準備をしておいてしかるべきだったということだ。逆に言えば、そういう突っ込みに対して、「始めからホラーだった」とか言って正当化しようとする田吾作プレイヤーは話にならんということだ。あるいはもしかして、彼らは仮にそのような反論を作者がしたらむしろ恥を曝すだけ、という事実に気付いてないのだろうか?だとすれば、げに恐ろしきは信者の思考停止なり、という話である。
とはいえ、だ。
設定がおかしいとか、それが現実を反映していないという理由だけで作品にダメ出しをするのもまた、木を見て森を見ない行為ではないか?まあ一応歴史学科にいた身として、「史実」を無視しまくった設定を見るととりあえず突っ込みたくなったりする気持ちは理解できる。しかし、それだけで切って捨てれる妥当性って何なのだろう。もちろん、現実に即した設定でなければリアリティが失われプレイヤーを巻き込めなくなる、といった話はわかる。しかし繰り返すが、もしそれだけで作品を否定しようとするのなら、その部分が絶対的・徹底的に重要であることを示す必要があるように思われる。でなければ、その評価は単なる嗜好の問題であって、まるで一般性を持たない。まあこれはひぐらしのレビューに限ったことではなく、今まで見てきたレビューのほとんどは、批判はするけどその批判がそもそも批判として成立するのか否かっていう吟味が欠落しているような気がする(例えば「悪人をムカつく奴だと評価するのは作品にとっては褒め言葉だ」とかね)。もしかすると、相対主義が血肉化していないため、梯子を外されることをあまり想定していないのかもしれない。ちなみに私の場合、そういう思考でレビューを構築する(別の言い方をすれば臆病な)ので、ひぐらしの謎の集団の設定についても推理が結局「何でもあり」になるからダメだ、と理由をあげて批判したし(「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」、「ひぐらしとルール」)、罪滅し編の戦闘描写については、それがFateなどへのオマージュなどであることには触れつつも、祟殺し編での圭一の決意や犯行の重みがなくなるという理由で問題視したのであった(「戦闘力がテーマを挫折させる」、「ひぐらし祟殺し編再考」)。また鬼隠し編の真相を批判し未だに納得もしてないのは明らかに本編からは推理不可能だからだし(まあレナや魅音が本編でも考えなしの白痴として描かれているのならまだわかるが)、澪尽し篇のエンディングを激しく批判したのも、それが「殺人の否定」という(作者がわざわざ強調するほどに)ひぐらしにおいて重要なテーマと抵触する内容だったからだ。
このように、私は批判を書くときは「なぜそれが批判たりえるのか?」ということを重視してきた。そうでなければ、繰り返しになるが、それは評者の個人的願望の域を全く出ないからだ。これは「沙耶の唄」や「終末の過ごし方」、「クロウカシス」のレビューなどにも共通するし、逆に嗜好の問題だと思ったらそれが嗜好であることを示し、かつそのような嗜好が出てきた原因を分析してもいる(最近ので言えば「デスノート」がそれだ)。このような批判に要求される姿勢も考えると、ひぐらしの設定の問題点をそのまま作品の否定にまで結びつけてしまうのは、もちろん個人の嗜好としては自由だが、妥当性のある批判・批評という点では説得的ではないと言わざるをえない。より詳しく言えば、連続殺人事件に関して人間の法則性を見出そうとする思考様式を利用したこと、祟殺し編の殺人否定の演出方法、ループやカケラ紡ぎを通じたプレイヤーと作中人物を重ね合わせる工夫(ここには掲示板を通じた双方向的な製作という側面も含まれる)、ループによる反復可能性と闘いの終焉による反復不可能な生の到来、そして反復不可能性でさえも結局は一つのカケラに収斂するという演出、といった特徴や斬新さがあるにもかかわらず、設定の問題点だけで切り捨てるのはいかなる根拠によるのか、ということだ。もしそれを示せないのなら、繰り返しになるがそれは個人的嗜好・願望の領域を全く出ないということである。
以上のような観点で行くと、何とか正当化しようとする信者も木を見て森を見ない人たちも、自分の嗜好に埋没して思考停止しているという点では、私には全く同じに見える。そしてそういう姿を見るたびに、まったく「シンパ」とか「アンチ」とか、そのカテゴリーごと一緒に焼失すればいいのにと、思考的閉塞を嫌う私はいつも思うのである。
少し話が逸れてしまったが、まあいい。
思えば7話は、ひぐらしで言うと批判の噴出した皆殺し編にあたる。うみねこはそこでどのような手を差してくるのか、楽しみにするとしよう。
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