2010/9/26
<インスタント痴女>→「成ル談義 続」
クーロくんの白昼夢、きっとかわいい男の子だから。魂を売り渡してもいいw表紙は「俺の血は他人の血」。
<接吻>
犯人の心情を描いて正当化(=感情移入)するのでもなく、描かないで風景化するのでもなく(=犯人に告ぐ)、ある程度描いた上で犯人側に立つ主人公から否定させている。だから小池栄子に超然とした佇まい・雰囲気が生まれる。信念をさも当然のように押しつける(押し付けていることさえ気づかない)世間への嘲笑と通底。「普通という名の暴力」に鈍感な者たちへの嘲笑と復讐。沈黙は拒絶(冒頭の京子、犯人の発語の契機)。小池栄子の圧倒的存在感、目力が作品の要。ただ、セリフの刈り込みに問題ありなのと、最期の言葉が結局は理解者を欲しいだけかとも思わせる点が問題(後者はかなりハイレベルな要求)。悔悟する犯人の描写→犯行の肯定ではないことを示す。特定の誰かを殺傷しても何も変わらんという現実。
<ベタにネタ→虚淵玄の錯誤>
ヤンデレ、ツンデレそのものは別にいい。ただ、そういうあからさまな人間類型を見て「自分はわかってる、わかって戯れてるんだ」という非常に低レベルな自己充足感に浸るという構造があるのではないか、と考えている。鈍感な主人公、君望の主人公への評価。極端なものが極端であることを知っていると言うのは結構だが、それは現実の複雑性やデタラメさを理解していることと同義ではない。全てが因果で説明できるはず、とまで人はあまり思わないものだが、にもかかわらず、ナイーブな因果応報的思考には容易にはまり込む。多様性フォビアとノイズ耐性低下の要因。
<フラグメント:人間という名のエミュレーター> →「沙耶の唄~覚醒・埋没・気付き~」
イーガンや認知科学については、「そんなもん知らねーよ」という反応も理解できる。しかしオウム事件についてもそう言えるのか?そこでは、薬物で宗教体験が引き起こされていたわけで、つまりはそのようなおそらく最も神秘的だと見なされているものさえシステム化可能なものとして超越のベールをはぎ取られ、引きずりおろされたのではなかったか。それを目の当たりにして、どうして「真の自己」、「深遠なる魂」、「精神」といったものが備わっているなどとまだ無邪気に信じられるのか?本作で描かれるのは郁紀と沙耶の交換不可能性[=「純愛」という評価の要因]であり、かつそれが人為的に作り出されたもの=交換可能でありうるということ[鈴見の沙耶に対する行為態度ゆえ、受け手が前者の解釈しかできないのは無理もないが]。つまり、「神秘」・「深淵」・「固有性」といったものすらシステム化可能ということであるのに→イーガンの「祈りの海」・「しあわせの理由」・「ぼくになることを」。「ひぐらし賽殺し編再考 結~詩と本編の齟齬が孕む毒~」と同じ視点。それでも結果として幸福感が得られるならば良いという「合理主義的」思考は、やがてロボトミー手術を望む精神性と区別がつかなくなるであろう。
<ヒトラー最期の>
他山の石。徹底抗戦を訴える上層部と蹂躙される市民。第三者的に見るとその無責任さや独善的なさまがよくわかる。特効に行った者達の自己犠牲の精神を称揚したりする前に、なぜそこまでしなければならない状況になったのか。あるいはそれ以外の選択肢はありえなかったのか。手段が目的になる構造。戦略的なものが教場主義的なものに堕する構造。
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