日本仏教はインドで発祥したものから大きく変容しているが、それをもって「日本人は仏教を理解できていない」と言う人は稀だ。一方、キリスト教は一時期急速に広がったにもかかわらず、「本当にキリスト教の精神を理解していたのか?」とさえ言われることが多い。
ここには、現在一神教が支配的な地域も元は多神教であったという歴史的事実に対する無知、そして「西洋を理解できぬ東洋」という内面化されたオリエンタリズムが背景にあるのではないだろうか?
たとえば日本で広く信仰されてきた宗教・宗派の一つに、浄土真宗があるが、そこには阿弥陀仏以外を拝まないという教義がある(ゆえに「一神教的」と言われるのだが)。しかるにその教義が厳密に守られている(そもそも知られている)とは言えない場面も多々あるわけだが、それをもって「本当の浄土真宗の信徒とは言えない」とか「浄土真宗を理解していない」と評価する言説はついぞ聞いたことがない(もちろんここには、いわゆる「葬式仏教化」の問題があり、教義面の理解など二の次だという意識が働いているようにも思われる。ちなみにそうすると、葬式を仏式でやっていると仏教徒ということになるのか、という前に書いた帰属意識の問題が出てくるわけだ。葬儀形態の実態としては、宗教的帰属意識よりも社会システム上の便益の問題=昔は他に選択肢がほとんどなかった・他をわざわざ選ぶハードルが高かったのではないかと思われる。まあそこには戒名や墓地といった既得権益の問題も絡んでいるのだが)。
ひるがえってキリスト教はどうか。それは今日の韓国のキリスト教をはじめ、地域的な多様性があるのがそもそも当たり前である。欧米で見ても、その中身は大きく異なるわけで、たとえばアメリカとヨーロッパは大きく違うし、またアメリカ国内でも福音派やクエーカー教徒など地域によってかなり異なる。ヨーロッパ内でもイギリスには国教会が存在するなど多様性がある。これは宗派の違いを言っているように感じるかもしれないが、そもそも数多の宗派の存在=多様性ではないだろうか。このような実態からすれば、「日本のキリスト教は本来のものとは違う」というような物言いに果たしてどれだけの意味があるのか極めて疑問である(私ははっきり言って偏狭な島国根性によるものと見ているが)。
もう少し歴史に根差した話をするなら、そもそもキリスト教を布教したイエズス会は、中国では儒教との融和を意識するなど、地域的特性に配慮しながら布教を進めていた(だから典礼問題が生じた時、イエズス会は他の宗派と違って孔子廟に礼拝することを認め、そのため康熙帝時代には唯一禁止されずに済んだ。まあ雍正帝時代には結局全面禁止になったのだが)。そういう戦略によって、戦国時代というアノミー状況の日本で急速に普及していったわけである。このような事実を踏まえれば、日本のキリスト教に独自の性格が紛れ込むのはむしろ必然的なことであり、かつキリスト教自体の多様性という普遍的状況も考慮するなら、それを問題とする理由は全く理解できない。なるほど確かに、キリスト教の根本から外れているか否かという視点で論ずることはもちろん可能であろう。しかしそれなら、アリウス派に改宗したゲルマン人はどうであったのか?コプト教徒は?あるいはレオン3世の聖像禁止令で窮地に陥った原因である、カトリック教会の偶像を用いた布教のあり方と、それによって改宗していった人々は?これらも日本と同じような評価の俎上に乗せなければ、それはオリエンタリズムに根差したダブルスタンダードとの誹りを免れないだろう。
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