ここ数回、明治期にキリスト教が解禁された頃の状況について言及してきた。ここからはもう少し突っ込んだ話ができればと思うが、その時のアウトラインとして小原克博の説明は大変参考になるのでぜひそちらをご覧いただきたい(この手の大きなテーマはどこまで詳細を説明するのかのバランスが大変難しいものだが、ヒンドゥーナショナリズムとの比較など様々なヒントを提示しながらここまで簡潔明瞭にまとめ上げ . . . 本文を読む
日本仏教はインドで発祥したものから大きく変容しているが、それをもって「日本人は仏教を理解できていない」と言う人は稀だ。一方、キリスト教は一時期急速に広がったにもかかわらず、「本当にキリスト教の精神を理解していたのか?」とさえ言われることが多い。
ここには、現在一神教が支配的な地域も元は多神教であったという歴史的事実に対する無知、そして「西洋を理解できぬ東洋」という . . . 本文を読む
今日の日本人の無宗教について論じる時、その多神教的性質が言及されるとともに、それとは真逆の、すなわち一神教のキリスト教が日本に普及しなかったのだ、と言われることが多い。
しかしながら歴史を見てみるに、そのようなメンタリティにのみ依拠した説明は粗雑以外の何物でもなく(というより結果から逆算してそうなりそうな要素を集めているだけ)、政府の政策・弾圧といった外在的要 . . . 本文を読む
この記事は「続・明治以降になぜキリスト教は広まらなかったのか?」の続きであるが、議論を進めるにあたって補助線を引いておきたいと思う。
キリスト教が初めて伝わった戦国時代、それは南蛮文化と同じく新奇なものであるがゆえに先入観が少なく、またそれゆえに翻訳(どう伝えるのか)にも苦労したわけである。当時は戦国時代であったために「日本」という単位での統一的な宗教政策は無く、高山右近や大友宗 . . . 本文を読む
人工知能と言語ゲームのことを書いたので今上映中のある映画にも言及すべきだと思ったが、それじゃあ「沙耶の唄」と類似の記事(レビュー)が一つ出来上がるだけで、何ともおもしろみがない。
とするなら、「嘲笑の淵源」とあの記事を接続してみるのはどうだろうか?元々あれは対話篇で最後を締めくくろうと思っていたが、かなり本質的・根源的な話になるので、どう構成するか時間に余裕がある時に書くんべーか . . . 本文を読む
昨日ウエッキー(毒書会を持ち掛けた人)から、「働きたくないイタチと言葉がわかるロボット」という本を勧められた(おそらく人工知能の発達が私たちの共通の興味関心が人工知能が作るポスト資本主義社会だからだろう)。
私はまだこの本を読んでいないので詳細なレビューを書く資格はもちろんないが、紹介文やレビューを見る限り、要するに「言語ゲーム」の話であろうと思われる。なるほどこれは非常に興味深 . . . 本文を読む
その悲惨さが喧伝されたり、一方でその「英雄的行為」が賞賛されたりする。しかしながら、その特攻(広く言えば自爆攻撃)を受ける側の恐怖や決死の応戦が言及されることがほとんどないのは一体どういうわけか(リベラリズムの観点からも、八紘一宇の観点からも、いずれにせよ視野狭窄と言わざるをえない)。
そこには、奇妙な被害者 . . . 本文を読む
初日朝にTOHOシネマズへ見に行ってきましたんで、早速レビューをば。ネタバレ嫌だってヤツは見んじゃねーぞコノヤロー!!
あまり体系的なものにはなっていないので、いくつか項目に分けて書いてみる。
<演出の妙、あるいは「振り子」の原理>
冒頭ののどかな風景(快晴)と魚釣り。海に向かって試し撃ちする子分に対し、あぶねーだろバカヤロー!という大友の姿は . . . 本文を読む
10/7の朝に予定合わせて見に行ってきたぞコノヤロー!
仕事はどうしたって?休んでいったに決まってんだろバカヤロー!ヤクザが有休使ったらおかしいかゴラァ!
場所?歌舞伎町にあるTOHOシネマズに決まってんだろ、それ以外のどこで観んだコノヤロー!
客層?パンピーばかりで拍子抜けだバカヤロー!
というわけで、次回レビュー書きます(・∀・) . . . 本文を読む
読者の中には、なぜわざわざ「明治以降の」という限定が入っているのかと訝しく思う人もいるだろう。その理由を先に述べておくと、「キリスト教は戦国時代には広まったから」である。
もちろん、これについては様々な指摘ができる。たとえば「広まった」とはいえ100万人には満たない規模であるとか、そもそもそれは「キリスト教」と呼べるのか。あるいは日本人たちは正しくその教えを理解していたのか?とい . . . 本文を読む