人工知能と言語ゲーム

2017-10-10 17:11:10 | AI

昨日ウエッキー(毒書会を持ち掛けた人)から、「働きたくないイタチと言葉がわかるロボット」という本を勧められた(おそらく人工知能の発達が私たちの共通の興味関心が人工知能が作るポスト資本主義社会だからだろう)。

 

私はまだこの本を読んでいないので詳細なレビューを書く資格はもちろんないが、紹介文やレビューを見る限り、要するに「言語ゲーム」の話であろうと思われる。なるほどこれは非常に興味深い話題である。というのも、ちょっと考えればわかるが、人間はインプット(記憶・理解)はもちろん、アウトプット(説明)についても不完全な存在であり、つまりは人工知能がリテラルに理解する能力だけ備えていても、コミュニケーション(相手の意図を理解する)という点では不完全ということだ。

 

これについて、たとえば7月に友人の結婚式で熊本に帰省した際、友人(脳神経内科の医師)と話した内容がおもしろかった。彼が言うには、ある病気がどういう症状でどういう薬を処方したり治療法を提示すればよいのかはできるが、たとえば「腕が痺れる」という言葉が何を意味するかを正確に理解することはできないと言っていた。というのもそれは、腕に感覚がないことを指すこともあれば、腕がビリビリ痺れることを指すこともあるからだ(ついでに言うと、足裏の「反射」と呼ばれるものが正しいのだとすれば、たとえば「土踏まずが痛い」と思った時、実際に問題があるのはそこではなく胃であるといったこともあり、そもそも痛覚の認識が患部と必ずイコールになるかは別の話である)。つまり、言葉そのものを「正確に」理解しようとしたところで、正しい答えにたどり着けるわけではないということを意味している。これを私は興味深く聞くとともに、たとえば人間ドックの高性能化による解消は可能であるかもしれないという考えを持ちつつ、とはいえ別の問題として、医師からのinstructionを患者が正確に守っているかのチェック、あるいは守らせることは人工知能にとって荷が重い問題だなとも思った(これは教育などにも当てはまる。正しい手法を提示することなら機械の方が正確にできるようになるが、それをきちんとこなしているかをチェックし、必要があれば強制さえするのは、人工知能の職掌的にも難しいのではないか)。

 

また、「言語ゲーム」については人間の日常生活にも当てはまる(まあそれを観察してヴィトゲンシュタインて人が言い始めたのだが)。たとえばウィンナーコーヒーを注文した時に、コーヒーとウィンナーソーセージが出てきたとしよう。もちろんこれに文句をつけることはできるが、まあこれはこれでいいかとコーヒーを飲み、ソーセージを食べることもあるわけだ。言語ゲームとは、乱暴に言ってしまえばそういった「実はわかってないのにそれなりに社会が回っている状況」を言っているのであるが、ここに人工知能が絡むと一つ問題なのが、人間がそこで「まあしょうがないや」と流せるかということだ。人間が不完全な存在であることなど、よほど頭がおかしいヤツでなければ誰だってわかっている。ゆえにファジーさ(なあなあ)が通用してきた。しかし、共通前提が崩れて他者だらけに社会がなった時、なあなあが上手くいかなくなっているのは今日の報道を見れば明らかだろう(それをダイバーシティの許容=包摂で乗り切るのか、あるいは排外主義で乗り切るのかの違いがあるだけだ)。ゆえに私は繰り返し「共感」が大事だと喧伝することの危険性を指摘してきた。というのもそれは、本来論理的思考力・経験・想像力を駆使して辿りつく理解であるはずなのに、なにか曖昧な精神主義的な慣れあいの大切さであると(特にこの日本においては)誤解を受けると考えているからである。さて、それでは人工知能がファジーさを理解できないことに対して、人はどう反応するだろうか?一つあり得るのは、「やっぱり機械より人間の方が人間を理解できるよね」という認識への到達である。まあ先の話からすればあくまで「問題なく回っている」だけで、本当にどこまで理解しているのかは極めて疑問なのだが、相手が人工知能であるがゆえにそれが相手の瑕疵として強く認識される、ということだ。

 

こういった問題がどう解消していくかは興味の尽きないところではあるが、それを考えるきっかけとして、この著作は参考になるかもしれない。

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