アウトレイジ最終章 レビュー

2017-10-09 17:42:57 | レビュー系

初日朝にTOHOシネマズへ見に行ってきましたんで、早速レビューをば。ネタバレ嫌だってヤツは見んじゃねーぞコノヤロー!!

 

 

あまり体系的なものにはなっていないので、いくつか項目に分けて書いてみる。

 

<演出の妙、あるいは「振り子」の原理>

冒頭ののどかな風景(快晴)と魚釣り。海に向かって試し撃ちする子分に対し、あぶねーだろバカヤロー!という大友の姿はコミカルであり、もしかして毒気が抜けたのか?と思わせる。しかしそれに続く雨と黒い車、繁華街。ギャップによる観客の引き込みの効果はもちろんのこととして、雨が不穏な先行きを象徴する。案の定トラブルでの呼び出しと花田との対峙。直接話す前に顔を殴られた女子二人の様子で凶悪な相手であることが予想される。で、ベッドルームでのご対面。すごむ花田に対し、どう反応するか見ていたら大友が「なめてなんかいねーよバカヤロー!」と前作までのノリをぶっこんできて、キタ――(゚∀゚)――!!やっぱ牙を抜かれたわけじゃなかったのねとノリノリで見てたら、大友の部下たちにチャカをちらつかされて、まあまあまあとなる花田。そして結局逆に多額の金を請求される。おいおい、お前アホすぎやろと思ったら、大友たちが帰った後で部下に八つ当たり。お前ホンマ最悪なヤツやなー。さっき女の子を殴ってたのもそうだけど、強きに媚びて弱気を挫くというか。そして全然状況の読みが甘いわけで・・・、こいつが部下にゴニョゴニョ言って金を受け取るヤツを殺ったれと言った時点であーもー詰んだわコレとなりました。

長々と書いたが、こうやって「気に入らんことに対して我を通そうとし、通らないとメンツの問題として暴力に訴え、結果どんどん状況がエスカレートしていく」構造は、これまでのシリーズ、特に第一作でも出てきた「振り子」を思わせる(ただし組を潰す狙い=政治的思惑が連動してい第一作に対し、最終章ではよりいっそうエゴの面が強く出ている)。単に展開が矢継ぎ早ということではなく次から次へと受け手を引き込む演出はさすがだなと感じた。

最終章は予告でかなり本質的なところまで見せていることからも、何が起こるのか?というよりどう見せるのか?という部分に工夫の力点が置かれているように思われる。

そういう意味で言うと、中盤で描かれる防弾ガラスに救われる西野と、ガラスが防弾じゃなくて危うく死にかける野村の対比的描写はおもしろかった。これは両者の隙の有無をわかりやすく示すだけでなく、今後の結末も予測させる巧みな演出だと感じたからだ。そのついでに張会長も比較に入れると、目の前でヒットマンがチャカをぶっ放そうとしているのに、顔色一つ変えない描写が印象的だった。これは張が他の場面でも見せる圧倒的存在感ゆえに説得力のある場面だったが、防弾ガラスとはいえ撃たれて笑っている西野、ビビりまくって他に当たり散らす野村と並べると、野村の小物感がより際立つとともに、西野よりも格上の張という構図が印象付けられるようになっている。

これらはほんの一部だが、全体として非常に見せ方が洗練されていると感じる映画であった。

 

<花田の描写サイコーwww>

花田のキャラがすばらしすぎる。最初は買った女が気に入らないと凄み、大友たちが出てくると結局金を払うことを承諾し、受取人を殺す。その後で金を払いたくないとか指詰めたくないとか言い、しかも花菱会の他の人間とのやり取りもなんか怒られたり呆れられたりしてるのに、ビビったりヘラヘラしたりとなんか芯のない反応をする。SMまでやってんのになんだこの軟体動物は?と疑問に思うが、まあ上にはペコペコして下には強く出るタイプってことかなあと思っていたら・・・最後の最後でやってくれましたよ、まさかのドMだったとはwwwいやー、シーンを思い返すと、なんでボールギャグ用のグッズを自分につけていたのかとか、色々「不自然」な要素があったが、全てが一本に繋がりました。まさかこんな部分にも壮大な「伏線」をかましてくるとわね・・・全くあなどれませんわwww一応真面目な話をしておくなら、この描写にはフィルム・ノワール的な本作でありえる「ヤクザの生き様を理想化して描いている」という心酔・批判に対するブレーキ・解答にもなっていると感じた。

 

<殺し方はちょっと・・・>

今回の白眉は、ワゴン車の中の銃撃戦、激励会でのマシンガン虐殺、そして「キャンプ」だろう。これまでの「アウトレイジ」シリーズと同じで、それぞれ特徴的で展開にアクセントをつけている。しかし、どんな殺し方になるのか、されるのか?というワクワク感もさることながら、ワゴン車のそれによる緊迫感と追い詰められた感を演出し、マシンガン虐殺はこれまでには少なかった大量殺戮シーン(一応、第一作で大友組事務所が襲われるシーンでの「死のダンス」はあるが)という点で特徴的だ。大量殺戮については後で別のテーマで触れるとして、「キャンプ」が個人的にあまりヒットしなかったのが残念。というのも、「それ死ぬ前に見つかったらどうすんの?」、「誰が見つけたことにすんの?」といった疑問(まあ後者は匿名のタレコミでいけるのかもしれんが)が先にきてあまり乗れなかったからだ。確かに、首を逆側に向けることができないで音だけが迫ってくる恐怖はかなりのものだとは感じたが、前作の「野球やろっか?」があまりに秀逸すぎたので、ちょっと期待値が上がりすぎていたのかもしれない(あれは子飼いのバッセンなので逃げられないという恐怖、そして殺し方の特異さとコミカルさ、かつ簡単には殺さないという大友の怨念の深さを実感させ、非常に感銘を受けた演出だった)。

 

 

<時代を感じさせる配役に>

前作のアウトレイジより、ある役者は亡くなり、ある役者は大病を患い、と色々大変だったようだ。今回花菱会会長が変わったのも、花菱会若頭補佐の中田が杖を突いているのも、そういったことが関係している。ただ、この現実の変化による配役の変化が、本編中での時間の流れ(あるいは本作のテーマでもある「栄枯盛衰」)と妙にマッチングしていてい全く不自然さを感じさせないどころか、妙な納得感があったのはさすがだと思った。

 

<それでも組織は存続する>

アウトレイジという作品が、「義理人情」・「仁義なき抗争」・「組織の論理に翻弄される人々」という二つのテーマで貫かれているのはわかりやすいと思う(だからこそ、張会長の屋敷には「仁は義なり、義は仁なり」の掛け軸があるわけだし)。その意味で言うと、第一作で翻弄された山王会は加藤会長などを殺してその力を大きく減退せしめ(ただしこれは片岡=マル暴という組織に利用されたため、最後は彼を殺してその軛を断ち切った)、第二作では同様に花菱会の主要メンバーを大量に殺して組織レベルでも一矢報いた形である。こう考えると、パーティー会場での大量虐殺は、単に視覚上の引き込みだけでなく、巨大組織に利用されるだけでなく一矢報いたという(象徴的にも実態的にも)カタルシスをもらたすものであった。しかし、この映画の最後、それでも西野を会長として、大きくメンバーを減らし、変えながらも花菱会は続いていく。これは繁田なきあとのマル暴、大友なきあとの張グループも同じことである。

このようにして、多くの屍、あるいは義理人情に殉じた(というとカッコよく言いすぎだが)大友の死後も組織は変わらず生き続けるのである。このそこはかとなく残る無常感が、本作を貫くテーマの答えであるとともに、すばらしい余韻ともなったと思う(この点は「仁義なき戦い」の第一作などに近い)。

時代劇であれ現代劇であれ何であれ、抑圧されてきた個人が悪しき組織を打ち倒すという構造は、カタルシスを得る目的としてはありだろう。しかしながら、それに安住してとにかく組織を潰せればいいという杜撰な話では、興ざめもいいところである。その組織を潰せば得をする人間、その組織の中身を変えたいと思う人間がいるから、そこに付け入る隙もあるし、一矢報いることもできる。しかしそこから組織そのものまで壊滅できるかと言えば、それは夢物語にすぎない。そのような重いテーマを突き付けているという意味で、今回の終焉は大友という人物の造形から言っても、必然的・納得的なものであったと思うのである。


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