市井の隠居から課題図書を命じられてから、やっと漫画版『神聖喜劇全6巻』(大西巨人原作・のぞゑのぶひさ・岩田和博、幻冬舎、2006.5~2007.1刊行)を読み終える。
野間宏の『真空地帯』や五味川純平の『人間の条件』を思い出す大河小説だが、漫画版でありながら一冊を読み終えるのは難儀な忍耐が必要だった。
というのも、戦前の軍隊にからまる難解な引用文が次々頁を満たし、読めない漢字が読者を襲うのだった。漢和辞典の助けを借りながらマンガを読んでいく行為そのものが「神聖喜劇」かもね。
1942年、絶海の対馬に配属された陸軍二等兵が三カ月の入隊教育を受けていくなかでの短期間のドラマなのだが、読んでいくと大河小説に入り込んでしまった迷宮に戸惑う。
この手の物語は悲惨な戦闘場面が多いのに、それが全くないない軍隊生活を描くのも珍しい。
軍隊の絶対的な論理や差別(とくに差別)の不条理に対して、記憶力抜群の九州帝大中退の主人公・東堂太郎の戦いが始まる。例によって軍隊の悲惨な描写も多いが、それを支える人間の生真面目さ・いいかげんさ・狂気をユーモラスに描いているところは大西巨人の人間観察の深さでもある。
二等兵にかけられた冤罪を論理と軍の法規で、軍隊という権力に巣くう「人権や人間の魂」の欠如を丹念に暴いていく合法闘争である。その粘着質的なエネルギーは大西巨人の溢れださんばかりの知性と情念がこれでもかと沁み出してくる。
政治学者の丸山真男が戦前の日本の国家体制の本質は「無責任体制」だと看破したが、大西巨人も偶然にも一致したとしている。
三カ月という短期間、軍隊という特殊な狭い組織、その中で展開されている人間ドラマは、まさに凝縮された日本の社会の実態を表現しているのは間違いない。
止まらない大手企業の不祥事や政治家・米軍・マスコミの腐敗・傲慢が目に余る現在、大西巨人の暴く提起に答えを出していかなければならないのだが。
東堂のような知性と行動が多数を占める社会は無理なのだろうか。それよりはパンダを観に行くほうが大切なのか。井上陽水のように今は「傘がない」ことこそ大切だということなのだろうか。