下町のマンション内の集会室で行われた次兄の「偲ぶ会」に参加させていただく。
兄は、東京大空襲を覚えていてすぐ近くに焼夷弾が落ちて危うく殺されそうになった、と少年のオイラによく説明してくれた。焼夷弾でわが家も燃やされたので、器用な親父が焼けトタンや材木で住む家を建設してくれたという。
そのため、家計は苦しくなったため次兄は親戚に預けられた。成人してからはどこにいるのか、どんな仕事をしているかわからないままだったが、ひょっこり実家に戻ってきてすぐに消えていくという、「フーテンの寅さん」だった。
自称・他称「落ちこぼれ」の次兄が立ち直ったきっかけは結婚と子育てだった。彼のニートぶりを丸ごと受けとめてくれる人との出会いだった。
さらには、マンション住民が自主的に運営してきた「サロン」と「シルバーセンター」の存在も大きい。毎週開催されるサロンの常連だった次兄は、リーダーではなかったがそこでさりげない持ち味を発揮できる機会を得たのだった。
偲ぶ会を開催してくれる「サロン」という自主的なコミュニティーの存在がいま極めて時代性があることを思い知った。
その偲ぶ会には40人を越える人が集まり、ニコニコしてホッとできるオーラを発揮していた次兄の冥福をみんなで送ってくれた。波瀾万丈だった「落ちこぼれ」をみんなで受けとめる人間賛歌のつながりがそこにあったのだった。
苦節85年の生涯の終わりをみんなで讃えてくれたことで次兄の魂の救いの場となった。しっかりもんの娘もその運営に参画し参加者と一体となった。次兄のさりげない明るさと優しさとに感謝する場ともなった。
それにしても毎週、サロンを運営していくパワーとつながりとに目を見張る日ともなった。落ちこぼれとみなされていた者でも、ゆるやかに受け止めてくれる場を獲得できたことで、兄はかけがいのない幸せと空気を浴びてきたのだと思う。
皆様に感謝そして合掌。