山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

トンネル脇の石塔・石仏への想い

2019-10-02 22:48:00 | 石仏・石造物

 天竜区二俣町のトンネル脇の石仏・石塔群を再訪する。ほとんど行き交う人もいない道路際にひっそりとたたずんでいる。そのうちの「念仏供養塔」を見てみた。いつごろのものか石塔の裏や横が見えないのが残念だが、江戸か明治ごろのことだろう。念仏をいっぱい念じればそれだけ功徳があるという念仏講があった名残だ。

 「奉唱念仏三千萬遍供養塔」と刻印したようだ。念仏を三千万回も唱えたぞという記念碑なのだ。ふつうは百万遍くらいで石塔をたてたようだが、三千万回とはなんともばかでかい数値だ。念仏講中が車座になって念仏の総計を数えていくわけだが、それほどに、疫病などで死者が多数出たほどに流行した背景があったに違いない。願主は「真参」と読める。

      

 またその隣に、しっかり彫られた庚申塔があった。左上には太陽と雲の刻印が微かに読める。右上は欠損しているが月と雲が彫られていたかもしれない。坊主頭の青面金剛の目はドングリ型で吊り上がっている。鼻の下には蛇のような髭が見られる。左手には「法輪」と「羂索(ケンサク)」、右手には「三叉槍」と「金剛杵(コンゴウショ)」、中央の合掌または「宝珠」を持った手は欠損している。オーソドックスな持ち物だった。ふつう青面金剛の衣服は単純だがこれはリアルに表現されているし、顔の表情も生きている。石工の技術が優れているように思えた。

 農業を中心としたかつての村社会のなかで、念仏講や庚申講がコミュニティーとしての電源だった足跡がそこにあった。天竜の二俣町というと、徳川と武田の攻防の要衝だけが取り上げられるが、こうした庶民の息遣いも残さなければならないね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする