前回の役者絵の左端は、女形の初代岩井紫若(シジャク、1804-1845、岩井半四郎/七代目)である。紫若は42歳で病没したが、娘役や若衆など美形の「紫若半四郎」と評判だった。その美しい派手な髪型は現代でも人気が衰えない「島田髷(マゲ)」。その髪型は、江戸後期に流行した「高島田髷」または「つぶし島田」のようだが、オラには髪のそれぞれの名称がぶつかりあって混乱してしまう。
(イラストは「加納」webから)
髷を二つ折りした所に「手絡(テガラ)」という「鹿の子絞り」のピンクの布で縛ってある。そのときに、縮緬状の折った紙を差し込んで髷を高くしている。天保の改革(1841-43)のぜいたく禁止令により布の縮緬の利用が止められたので、それにかわり和紙の縮緬紙が使用された。役者絵ではそれをアッピールしたように大きく描かれているのがたくましい。
また、前髪と髷の間には花模様をあしらった櫛をしっかり描いている。そのうえさらに、「助六」が紫の鉢巻きをしていたのと同じものを紫若もしているが、その意味は分からない。この助六の鉢巻は、病鉢巻とは逆の鉢巻を巻いているので、これは放蕩無頼、異端の傾き者の粋を表現しているパワーの証ということらしい。
着物について、華麗な総柄模様は幕府の贅沢禁止令によって腰から下の「裾模様」へと変化していく。上側は流行していた地味に見える「江戸紫」の単色で粋をあらわし、裾ではカキツバタの優美な花を配置している。また、その内側には、『八百屋お七』を演じた五代目岩井半四郎が着た「麻の葉鹿の子」が堂々と描かれている。それは「半四郎鹿の子」と呼ばれるようになった。
帯についても、「昼夜帯」という裏表両面が使える帯で、一見地味そうだが光沢のある黒繻子(ジュス)であるのが粋だ。そしてその結び方は、結びめが横になるふつうの結び方でなく、帯の両端が上下の縦に出るように結ぶ「堅(タテ・縦)結び」に見える。帯を締める帯留め・紐がないのが江戸後期の特徴らしい。
こうして、江戸初期は武士中心のファッションだったのが、中期は裕福な町人、後期は庶民へと主役が変わっていく。その原動力は歌舞伎からで、その役者絵はファッション誌でもあった。