田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
一昨日、昨日と壱岐に釣り仲間と壱岐ドライブ旅行でした。
小倉室町の錦龍のI氏、M画伯、薩摩隼人のO氏、工務店のS氏、苅田町のMT氏に私の6人の不良爺さん達。
(唐津河村美術館の青木繁)
唐津から壱岐までのフェリーの出発に時間があったので、青木繁の絵が常設展示されているという河村美術館に。
落ち着いた5月の日差しに緑がまぶしい唐津の町の一角に美術館。
小品が多いが、絶筆となった夕焼けの大型和船の絵など、見あきない。
29歳で結核で亡くなる直前、漂泊の旅の途中ここ唐津に滞在した縁で絵が保管されているとのこと。
M画伯、じっくり絵をみながら「いいものを見せてもらった」と。
定刻にフェリーは唐津出港、壱岐の印通寺に向かう。
風が強く白波。
やがて初めて見る壱岐の島。(冒頭の写真)
(松永安左エ門記念館)
壱岐は、松永安左エ門が生まれ育った島。
記念館があるそうで、ここに立ち寄ることに。
実業家、茶人、登山家、文筆家、歴史家、遊び人、どれにも抜きんでた人。
96歳、昭和48年に亡くなるまで、現役で活躍した。
25年前、たまたま新聞広告で買った「松永安左エ門著作集」は今も私の愛読書。
この3月、晩年を過ごした小田原の自宅を開放した記念館に行ってみたが、素晴らしかった。
壱岐の記念館、簡素だが、貴重な手紙(歴史学者A.J.トインビーの手紙もあった)、愛用の旅行鞄、写真家の杉山吉良撮影の多数の松永安左エ門晩年の写真と興味深い。
特に杉山吉良の沢山の写真は、記念館の敷地内にある実家の建屋が雨漏りがしてきたので、管理している方が屋根裏部屋に入ってみてみたら、新聞に無造作に包まれて置かれていたものとのこと。
貴重な写真を発見、大切に保管させたご本人の管理人の方から生の話を聞け、ラッキー。
北村西望が作ったご夫妻のブロンズ像の前で、6人の不良爺さんで記念写真。(下の写真)
(波止釣り)
壱岐の北の端にある、勝本の民宿(ふくや荘)に到着。
宿のすぐ裏手にある漁港からアジが釣れるというので、竿、餌を民宿のご主人に借りていざ。
最初は小型のスズメダイばかりで、当てが外れるも、開放的な波止場で童心に帰る。(下の写真)
幸い、納竿30分前から、20センチ程のよく脂の乗ったアジが釣れ始め、バケツはたちまち一杯に。
夕方のピンク色の空が素晴らしいと誰かが言って、それではと記念写真(下の写真)
(御馳走)
民宿、ふくや荘は工務店のS氏の定宿で、料理もよく、部屋も清潔、ご夫婦も素朴・品がありいい宿。
夕ご飯の海の幸、これを3等分して、3日食べても、御馳走。
うに、アワビを口いっぱいに頬張り、ご機嫌でした。(下の写真)
翌日は、食べすぎで、胃が重い。
予定していた船釣りは高波のため中止。
昨日の波止場で、またアジねらいをしましたが、カラ振りでした。
5月の日差しと潮風で、昨晩の二日酔いも納まり、ふくや荘を出発(下は記念写真)
(ピカドン)
薩摩隼人のO氏、75歳で、終戦時9歳。
長崎で大村にお住まいで、原爆投下の時、外に出ていて、原爆を体験したのとこと。
ピカと強い光がして、そのあとから、腹の底から響くような、ドカーンというものすごい音。
本当は遅すぎるのだが防空壕に飛び込み、また直ぐ、外に出てみた。
ピンク色のキノコ雲が山向こうの長崎の方向に高くたちのぼっている。
悲惨だったのは、そのあとで、重傷者は車で、歩けるものは徒歩で大村まで避難してきたが、皆さん皮膚が一面焼けただれて、「水を」といいながら亡くなっていった。
近所に病院の死体安置所があったが、おさめきらず、外に山積みになっていたとのこと。
世の中一寸先は闇、今日、楽しく遊ばねばと思った次第。
小田原の松永記念館様子は、
http://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/d/20100324
に詳しい。
写真の小田原の記念館の池は、松永安左エ門が設計したもので壱岐をイメージしたものだそうで、玄関口方向が、松永安左エ門が育った印通寺のような気がする。
一昨日、昨日と壱岐に釣り仲間と壱岐ドライブ旅行でした。
小倉室町の錦龍のI氏、M画伯、薩摩隼人のO氏、工務店のS氏、苅田町のMT氏に私の6人の不良爺さん達。
(唐津河村美術館の青木繁)
唐津から壱岐までのフェリーの出発に時間があったので、青木繁の絵が常設展示されているという河村美術館に。
落ち着いた5月の日差しに緑がまぶしい唐津の町の一角に美術館。
小品が多いが、絶筆となった夕焼けの大型和船の絵など、見あきない。
29歳で結核で亡くなる直前、漂泊の旅の途中ここ唐津に滞在した縁で絵が保管されているとのこと。
M画伯、じっくり絵をみながら「いいものを見せてもらった」と。
定刻にフェリーは唐津出港、壱岐の印通寺に向かう。
風が強く白波。
やがて初めて見る壱岐の島。(冒頭の写真)
(松永安左エ門記念館)
壱岐は、松永安左エ門が生まれ育った島。
記念館があるそうで、ここに立ち寄ることに。
実業家、茶人、登山家、文筆家、歴史家、遊び人、どれにも抜きんでた人。
96歳、昭和48年に亡くなるまで、現役で活躍した。
25年前、たまたま新聞広告で買った「松永安左エ門著作集」は今も私の愛読書。
この3月、晩年を過ごした小田原の自宅を開放した記念館に行ってみたが、素晴らしかった。
壱岐の記念館、簡素だが、貴重な手紙(歴史学者A.J.トインビーの手紙もあった)、愛用の旅行鞄、写真家の杉山吉良撮影の多数の松永安左エ門晩年の写真と興味深い。
特に杉山吉良の沢山の写真は、記念館の敷地内にある実家の建屋が雨漏りがしてきたので、管理している方が屋根裏部屋に入ってみてみたら、新聞に無造作に包まれて置かれていたものとのこと。
貴重な写真を発見、大切に保管させたご本人の管理人の方から生の話を聞け、ラッキー。
北村西望が作ったご夫妻のブロンズ像の前で、6人の不良爺さんで記念写真。(下の写真)
(波止釣り)
壱岐の北の端にある、勝本の民宿(ふくや荘)に到着。
宿のすぐ裏手にある漁港からアジが釣れるというので、竿、餌を民宿のご主人に借りていざ。
最初は小型のスズメダイばかりで、当てが外れるも、開放的な波止場で童心に帰る。(下の写真)
幸い、納竿30分前から、20センチ程のよく脂の乗ったアジが釣れ始め、バケツはたちまち一杯に。
夕方のピンク色の空が素晴らしいと誰かが言って、それではと記念写真(下の写真)
(御馳走)
民宿、ふくや荘は工務店のS氏の定宿で、料理もよく、部屋も清潔、ご夫婦も素朴・品がありいい宿。
夕ご飯の海の幸、これを3等分して、3日食べても、御馳走。
うに、アワビを口いっぱいに頬張り、ご機嫌でした。(下の写真)
翌日は、食べすぎで、胃が重い。
予定していた船釣りは高波のため中止。
昨日の波止場で、またアジねらいをしましたが、カラ振りでした。
5月の日差しと潮風で、昨晩の二日酔いも納まり、ふくや荘を出発(下は記念写真)
(ピカドン)
薩摩隼人のO氏、75歳で、終戦時9歳。
長崎で大村にお住まいで、原爆投下の時、外に出ていて、原爆を体験したのとこと。
ピカと強い光がして、そのあとから、腹の底から響くような、ドカーンというものすごい音。
本当は遅すぎるのだが防空壕に飛び込み、また直ぐ、外に出てみた。
ピンク色のキノコ雲が山向こうの長崎の方向に高くたちのぼっている。
悲惨だったのは、そのあとで、重傷者は車で、歩けるものは徒歩で大村まで避難してきたが、皆さん皮膚が一面焼けただれて、「水を」といいながら亡くなっていった。
近所に病院の死体安置所があったが、おさめきらず、外に山積みになっていたとのこと。
世の中一寸先は闇、今日、楽しく遊ばねばと思った次第。
小田原の松永記念館様子は、
http://blog.goo.ne.jp/takeda12345_2006/d/20100324
に詳しい。
写真の小田原の記念館の池は、松永安左エ門が設計したもので壱岐をイメージしたものだそうで、玄関口方向が、松永安左エ門が育った印通寺のような気がする。