4月からいよいよ暇になり、妻と予て行ってみたかった、宮城の南三陸町に行ってみました。
東日本大震災で大きな津波被害のあった町で、地元のみなさん、果敢に津波に立ち向かったことで何度もニュースに。
東京の長男宅で、2泊、孫たちと遊んだあと、初めての東北新幹線で仙台に。
翌日、午前中、伊達家の菩提寺、瑞巌寺という寺に。
場所良く知らずに、仙台に来て良く調べると、松島にあるとのこと。
電車で40分、初めての松島。
さすが、伊達正宗、豪壮な桃山風の建築。(冒頭)
案内の地元の方に、津波被害はなかったのかと聞くと、松島の多島海の地形が影響して、松島には大きな津波は4000年来ていないとのこと。
高さ1.2メートルの防潮堤も越さず、港近くの防潮堤の無い地区だけ、床下浸水。
地震の方も、東北は雪が多くその対策で壁が多く、屋根も金属製・セメント瓦で地震被害もほとんどなかった。
瑞巌寺もちょうど当時は解体修理中で、まったく被害なしだったとのこと。
震災時、電気が通じず、被害状況分からなかったが、一週間して電気が復旧、大被害に驚いたとのこと。
松島町では津波による死者0だったとのこと。
午後、仙台駅に南三陸町のリゾートホテル、観洋からの迎のバスに乗り、2時間、立派なホテルに。
このホテルも津波で2階の天井まで水につかり、被害を受けたが、被災者600人を受け入れ、寝泊りの場所を提供したとのこと。
3月の被災から4カ月ほどは、水不足(飲み水・洗濯・トイレ・風呂)に悩まされたとのこと。
今は、完全にホテルは機能を回復、ウィークデーだが、見たところ200名ほどの宿泊客。
掃除も行きとどき、気持ちのいいホテル。
ロビーに、被災時の短文を掲示。
土産物売り場には、震災当時、地元の方がネット販売していた、釣にかかわるグッズも。
大漁旗デザインのタオル、バッチ、キーホールダー。
まとめ買い。
窓からは、志津川湾の養殖のブイが沢山。
聞くと、小さいブイはワカメ、中くらいのブイは牡蠣、大きなブイ(筏?)は銀鮭の養殖とのこと。
ホテルの夕食もこれらの海の幸がいっぱいでおいしい。
翌日、このホテルが毎朝運行している「語り部バス」に乗り一時間、町の津波の後を見て回る。
案内は、ホテル従業員で、自分が見聞きしたことを話してくれ、被害の大きさに唖然。
最初に高台にある、戸倉中学校後(今は公民館)に到着。
津波が押し寄せこの高台の中学校の一階まで水没したとこと。
ほんとかよと、驚く。
次に、廃墟になった、3f建のレストラン兼結婚式場。
津波当日、老人会の演芸会があり、380名の年配者が集まり、解散の時だったとのことだが、チリ地震を経験した従業員がおり、海の水が大きく引いているので、大きな津波がある、屋上に登り退避するようにと、外に出ることを制止したおかげで、多くの年寄が命拾いしたとのこと。
屋上が、くるぶしまで水につかったとのこと。
有名な防災庁舎の鉄骨も残っており、ここは、地元の人もカメラを向けるのをためらうとことで、私も撮影は遠慮。
バスから外には、一切出ず、最後は、この防災庁舎に向かって、バスの中から全員で合掌。
毎日、1人でも希望者がいれば、この語り部バス運行。
ホテルを出て、線路後を舗装してバスを走らせているJRバスで、南三陸町の旧商店街に。
トラックが行き来、工事現場。
すでに、旧市街の上10メートルに盛り土し、港近くに広い敷地。
ここに、商業施設を作るそうで、第一陣の商店街が3月からオープン。
多くの買い物客。
このあと、気仙沼経由で一ノ関。
初めてみる北上川は大河。
一ノ関から電車で二駅の所に平泉があり、毛越寺(もうつうじ)、中尊寺金色堂見物。
豪壮優美。
中尊寺の入り口には、弁慶の墓。
平泉の駅前の120年続いてるというそば屋さんで、昼食。
義経いわれの掛け軸もあり、おいしい。
壁に色紙がいくつもあり、テレビのディレクターのコメントも。
九州では、ローカル番組「メンタイワイド」が有名だが、この色紙「めんこいテレビ」には笑った。
その後は、埼玉に住む、古い友人宅に一泊。
竹田農園と同じく、サラリーマン卒業のあと、畑仕事に汗。
ここから、送ってもらったのが、ヤーコンの球根で、竹田農園の主要作物に現在なっている。
↓ヤーコン 友人の畑ではあまり人気ないようで、掘らずに放置している畝も
一週間ののんびり旅でした。
東日本大震災で大きな津波被害のあった町で、地元のみなさん、果敢に津波に立ち向かったことで何度もニュースに。
東京の長男宅で、2泊、孫たちと遊んだあと、初めての東北新幹線で仙台に。
翌日、午前中、伊達家の菩提寺、瑞巌寺という寺に。
場所良く知らずに、仙台に来て良く調べると、松島にあるとのこと。
電車で40分、初めての松島。
さすが、伊達正宗、豪壮な桃山風の建築。(冒頭)
案内の地元の方に、津波被害はなかったのかと聞くと、松島の多島海の地形が影響して、松島には大きな津波は4000年来ていないとのこと。
高さ1.2メートルの防潮堤も越さず、港近くの防潮堤の無い地区だけ、床下浸水。
地震の方も、東北は雪が多くその対策で壁が多く、屋根も金属製・セメント瓦で地震被害もほとんどなかった。
瑞巌寺もちょうど当時は解体修理中で、まったく被害なしだったとのこと。
震災時、電気が通じず、被害状況分からなかったが、一週間して電気が復旧、大被害に驚いたとのこと。
松島町では津波による死者0だったとのこと。
午後、仙台駅に南三陸町のリゾートホテル、観洋からの迎のバスに乗り、2時間、立派なホテルに。
このホテルも津波で2階の天井まで水につかり、被害を受けたが、被災者600人を受け入れ、寝泊りの場所を提供したとのこと。
3月の被災から4カ月ほどは、水不足(飲み水・洗濯・トイレ・風呂)に悩まされたとのこと。
今は、完全にホテルは機能を回復、ウィークデーだが、見たところ200名ほどの宿泊客。
掃除も行きとどき、気持ちのいいホテル。
ロビーに、被災時の短文を掲示。
土産物売り場には、震災当時、地元の方がネット販売していた、釣にかかわるグッズも。
大漁旗デザインのタオル、バッチ、キーホールダー。
まとめ買い。
窓からは、志津川湾の養殖のブイが沢山。
聞くと、小さいブイはワカメ、中くらいのブイは牡蠣、大きなブイ(筏?)は銀鮭の養殖とのこと。
ホテルの夕食もこれらの海の幸がいっぱいでおいしい。
翌日、このホテルが毎朝運行している「語り部バス」に乗り一時間、町の津波の後を見て回る。
案内は、ホテル従業員で、自分が見聞きしたことを話してくれ、被害の大きさに唖然。
最初に高台にある、戸倉中学校後(今は公民館)に到着。
津波が押し寄せこの高台の中学校の一階まで水没したとこと。
ほんとかよと、驚く。
次に、廃墟になった、3f建のレストラン兼結婚式場。
津波当日、老人会の演芸会があり、380名の年配者が集まり、解散の時だったとのことだが、チリ地震を経験した従業員がおり、海の水が大きく引いているので、大きな津波がある、屋上に登り退避するようにと、外に出ることを制止したおかげで、多くの年寄が命拾いしたとのこと。
屋上が、くるぶしまで水につかったとのこと。
有名な防災庁舎の鉄骨も残っており、ここは、地元の人もカメラを向けるのをためらうとことで、私も撮影は遠慮。
バスから外には、一切出ず、最後は、この防災庁舎に向かって、バスの中から全員で合掌。
毎日、1人でも希望者がいれば、この語り部バス運行。
ホテルを出て、線路後を舗装してバスを走らせているJRバスで、南三陸町の旧商店街に。
トラックが行き来、工事現場。
すでに、旧市街の上10メートルに盛り土し、港近くに広い敷地。
ここに、商業施設を作るそうで、第一陣の商店街が3月からオープン。
多くの買い物客。
このあと、気仙沼経由で一ノ関。
初めてみる北上川は大河。
一ノ関から電車で二駅の所に平泉があり、毛越寺(もうつうじ)、中尊寺金色堂見物。
豪壮優美。
中尊寺の入り口には、弁慶の墓。
平泉の駅前の120年続いてるというそば屋さんで、昼食。
義経いわれの掛け軸もあり、おいしい。
壁に色紙がいくつもあり、テレビのディレクターのコメントも。
九州では、ローカル番組「メンタイワイド」が有名だが、この色紙「めんこいテレビ」には笑った。
その後は、埼玉に住む、古い友人宅に一泊。
竹田農園と同じく、サラリーマン卒業のあと、畑仕事に汗。
ここから、送ってもらったのが、ヤーコンの球根で、竹田農園の主要作物に現在なっている。
↓ヤーコン 友人の畑ではあまり人気ないようで、掘らずに放置している畝も
一週間ののんびり旅でした。