2008年10月最後の土曜日、25日も予定通りに栃木県大平町の石仏巡りに行きました。今回から、大平町の見逃し碑塔の落ち穂拾いということで、先週に近くに行きながら訪ねなかった下皆川地区の大平山登山口から開始です。登り口の少し上にある碑塔群から始まり、更にその少し上にある庚申塚の青面金剛像を調べ終えた時は、既に10時近くになっていました。性分的に、山の中に入るとついついノンビリしてしまう私の悪い癖。
その後は、下皆川地区を一巡して碑塔を総ざらい。尤も、つい気を抜いて日枝神社へ行くのを忘れてしまったが…。
その後は少し移動し、西野田地区の報恩寺さんを訪問。ここで、今まで報告の無かった日光型庚申塔に遭遇。しかし、岩舟石を使用しているために何としても石文が判読できない。クヤシ〜イ現実を前にして考え、これを江戸前期造立の庚申塔と推定することにした。その他、墓地内や境内の石造物を見ていると、住職さんにお茶に誘われ、本堂へ上がって世間話に花が咲く。そんなこんなで、報恩寺さんを辞したのは12時半を過ぎていた。とにかく、どこかで昼食にしようと西水代地区の無住寺、長福寺に行って何とか遅い食事にありつけた。
今日の予定では、下高島の宝蔵寺さんの宝篋印塔調査にあったが、どうも時間的には無理なようなので、近くの延命寺を訪ねてここの宝篋印陀羅尼経塔を収録する。そしてついでだからと、墓地へ行くとその入口に立派な半跏地蔵像が建っている。また、その道沿いには点々と六体六地蔵らしきものが置いてある。気になり銘文を読むと、それは間違いなく六体六地蔵であり、しかも紀年銘を見ると寛文十三年(延宝元年)とあり、本日最大の成果となる。その後は、この西水代地区の落ち穂拾いをして、その総数も区切りの良い40基となり、今日はここまでと午後3時半に帰路に付く。
それでも今回も、宝篋印陀羅尼経塔は2基を記録したので、これで大平町の当該碑は丁度20基になった。落ち穂拾いとしては、バンバンザイの一日であった。そして次回、11月最初の石仏巡りでもって、この大平町の石仏巡りは一応の終了としよう!
その後は、下皆川地区を一巡して碑塔を総ざらい。尤も、つい気を抜いて日枝神社へ行くのを忘れてしまったが…。
その後は少し移動し、西野田地区の報恩寺さんを訪問。ここで、今まで報告の無かった日光型庚申塔に遭遇。しかし、岩舟石を使用しているために何としても石文が判読できない。クヤシ〜イ現実を前にして考え、これを江戸前期造立の庚申塔と推定することにした。その他、墓地内や境内の石造物を見ていると、住職さんにお茶に誘われ、本堂へ上がって世間話に花が咲く。そんなこんなで、報恩寺さんを辞したのは12時半を過ぎていた。とにかく、どこかで昼食にしようと西水代地区の無住寺、長福寺に行って何とか遅い食事にありつけた。
今日の予定では、下高島の宝蔵寺さんの宝篋印塔調査にあったが、どうも時間的には無理なようなので、近くの延命寺を訪ねてここの宝篋印陀羅尼経塔を収録する。そしてついでだからと、墓地へ行くとその入口に立派な半跏地蔵像が建っている。また、その道沿いには点々と六体六地蔵らしきものが置いてある。気になり銘文を読むと、それは間違いなく六体六地蔵であり、しかも紀年銘を見ると寛文十三年(延宝元年)とあり、本日最大の成果となる。その後は、この西水代地区の落ち穂拾いをして、その総数も区切りの良い40基となり、今日はここまでと午後3時半に帰路に付く。
それでも今回も、宝篋印陀羅尼経塔は2基を記録したので、これで大平町の当該碑は丁度20基になった。落ち穂拾いとしては、バンバンザイの一日であった。そして次回、11月最初の石仏巡りでもって、この大平町の石仏巡りは一応の終了としよう!