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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年8月22日も今市の石仏巡りでした

2009年08月23日 | Weblog

 朝一番で、小倉町の追分地蔵尊へ頼まれていた庚申燈籠の銘文明細を届ける。しかし、朝早すぎたと見え、留守なのでメモ書きして置いてくる。
 さて本日は過去に調査済みの碑塔再調査を目的として、早速今市市荊沢の公民館へ行く。本日はここからが出発で、公民館へ車を置いてまずは道路南側にある共同墓地から調査開始である。この墓地内にある天保年間の馬頭観音像に刻まれた道標文字、右○○○の文字が読めない。その読めないとは、私の知識不足以外の何ものでもなく、今更ながらに勉強の足り無さを痛感する。そして左○○の方は、フリガナまで付いているので良いのだが、その○○という方向を示している文字が「医師」とあるのには、又しても降参である。そもそも、「医師」等という地名は聞いたこともないので、あるいはこの当時に当地で有名だった医者がいた方向かも知れぬと、あらぬ事を考える。
 その共同墓地からさらに山際を東へ辿っていくと(ここはに住んでいる人でも余り知られていない個人持ち山の一角で、私は山遊びの時に偶然見つけた場所である)、そこにも幾つかの注目すべき碑塔が隠れるように存在する。その中でも特に、享保8年から宝暦12年迄にかけて、個人で西国板東秩父を巡ったことが記されている順礼兼読誦の笠付四角柱は、非常に興味津々と言ったものである。それらの塔に再会したのも久しぶりなので、別の方へ纏めておこうと思っている。
 そこを終えてから、今度は隣の針貝地区へ入り、高雄神社入る道路沿い共同墓地の再調査とする。最初にここへ来た頃は護岸工事が成されていない時で、碑塔調査をしているときにその崖薮からキツネが飛び出してきたところであり、家内と一緒に驚いたことを思い出しつつ、1基づつ丁寧に再調査する。そしてこの周辺を含めて調査を終えたところで早くも時計は12時。過去に調査した碑塔の再調査とは言え、午前中の碑塔調査がこの有様では面白くなくなり、まだ未調査となっているキテイ台風災害碑を昼飯前の調査として追加しようと、塩野室町まで足を伸ばす。そして災害碑なので鬼怒川沿いにあるのだろうと探したが見つからず、ここで一旦うち切り、清流を見ながらの鬼怒川沿いで昼食とする。
 それにしても、今日はやけに蒸し暑い。本来なら、秋に入った涼風が吹いていても良さそうな所でも蒸し暑く、全身汗びっしょりである。おまけに今回は、手をブヨに喰われたので痛痒くて仕方がない。それでも、飯を食い食い午後の部の作戦を練りつつ、疲れた身体を癒すために少し多くの時間を休憩タイムとする。
 そして午後、早速に元の戻り農家とあれば飛び込んで聞き込み調査を開始するが、生憎と留守の家や知らないと言う返事ばかり。それでもようやく、訪ねたおばあさんに「多分、あそこではないか」と2箇所を教わって飛んでいけば、それは開墾記念碑であり、もう一箇所の教えてもらった場所には粟野町の録事尊を祀っている場所だった。仕方なく、鬼怒川の土手に登って眺めるが、そんな碑が見えるはずもなく、さらに車が一台だけ通れる小道を探索すれば、その道沿いに建っていた。これが本日最高かつ唯一の、私にとっては見たかった碑となり、炎天下の中で長文を丁寧に書き写す。
 そんな訳で、その後は町谷地区の碑塔再訪&調査としたが、もちろん淡々と最新の記録に書き換えただけで目新しい物には出会えなかった。いや、それどころか、昔は確かにあった碑塔が今回の調査でなくなっているのに気付き、時代の流れとはこういうものかと実感した次第である。それにしても今日は疲れた。午後3時半過ぎには、もう単純な碑塔再調査にも飽きてしまい、早めの帰宅として車通りの少ない田舎道を通って帰宅する。
そうそう、今回の画像は針貝地区の明和2年銘の馬頭観音像です。口がまるっきりのへの字です!
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