今回は、暫くぶりに家内のママチャリを拝借して宇都宮市街地へ向かいました。その最初は、8月に観專寺住職さんにお願いしていた碑塔の確認です。しかし、どこをどう探しても該当する碑はないとのこと。ウ~ム、残念。
諦めて、次は延命寺さんへ行く。落ち葉掃除をしている住職ご内儀に挨拶して碑(いしぶみ)、いや正しくは墓碑調査のお願いをすると、どうぞごゆっくり調査してくださいという快諾を頂ける。何はともあれ、バケツと水を拝借して墓石掃除に取りかかるが、それは毎度の事ながら酷い汚れよう。しかも今回は二基を一度に調査するための墓石掃除なので、手拓を取れるようになるまでの状態にするのにそれだけでたっぷり一時間を要してしまった。そしてそれから手拓開始も、今回も両側面に碑陰まで碑文が刻まれている。一基を取り終えるだけで、10月に入ったというのに汗びっしょり。続いて二基目の墓碑に取りかかり、それらが終えたときには既に11時を過ぎていた。お礼の挨拶に行くと、綺麗に磨いてくれた御礼を謂われ、ついでに当寺に記録に残すような人物の墓碑が有ったことを教えてくれて嬉しいですとまで謂われてしまった。いつの日か、それらの調査報告内容を差し上げなければならないだろう。何しろ当寺hは、彼の蒲生君平が最初に学問を当時の住職から習ったお寺さんだけに、関心ある方々が多く訪ねるお寺さんなので、そうした点にも関心があるようだ。さて、問題はそれから、いや夕方に帰宅してからの話である。ザックをおろして早速本日の成果を取り出したところ、肝心な手拓した墓碑一基分の用紙がない!。お寺さんで、後始末をしているときに置き忘れたのか、その後で訪ねた八幡山公園で昼食のためにザックを開けたときに落としたのか、いずれにしてもナイ!、無い!の大騒ぎとなる。まあ、無くしたものは仕方なしと、言葉だけは潔く諦める。手拓を無くした碑文は、しっかり手写もしてきているので、清書には問題ないので…。
さて、延命寺さんの次は悩んだあげくに、昼食をのんびり取りたいために宇都宮の中心地にある八幡山公園へ行く。もちろん、それだけで行くわけが無く、昼食後は同地にある大きな碑(いしぶみ)を調査するためでもある。公園東側の三角点広場にてザックを広げて昼食とし、ついでにザックを枕にして大休憩となる。長袖シャツを着用してきたが暑くなり、それを脱いで半袖となってのノンビリタイムは暫くぶりである。半分はうとうとしながら、今年も残り少なくなったこれからの碑(いしぶみ)調査についてあれこれと考えながら…。また、これから行なおうとしている碑(いしぶみ)調査が、どんなに大変なことかも想像できずに…。
その碑(いしぶみ)写真が、ここへ掲載したものである。高さは、私の持っているメジャーでは計測不能。横幅だけで、1.8メートルもある。それ以上に問題なのは、その前に茂っている樹木の枝。写真もまともに撮れないので、まずは手の届く範囲の枝を折って何とか写せる状態にしてから撮影。そしてそれ以上に悩ましいのが、恐ろしいほどの碑文文字数。手写用紙を取り出し、最初に数えたのがその一行文字数と行数。本文だけで一行43文字×行数28行。その他を合わせると碑表だけで1300文字にもなる。それをこれから細心の注意を払いながら一文字ずつ手写することになるが、1時間休みもせずに手を動かして手写出来たのはその三分の一。結局、碑陰の交名を抜かして手写が終えるまでに3時間半もかかってしまった。多分、これまでの栃木県内の碑文では1、2位を競う文字数ではないかと、その手写が終わったときには脚がけいれんするほどの疲れようだった。もちろん、これを手写した者は多分私以外には今までいないだろうという、半分はしてやったりの思いもある。もっとも、家内にその手写様子を見られたら、だから腰を悪くすると叱られそうである。帰路は、そんなヨロヨロした足取りで八幡山公園を降り、自転車を置いていた場所まで来たがまだ3時半を過ぎたばかり。そこで欲を出し、その近くの八幡山墓地を訪ねて、宇都宮の勤皇の志士として名高かい児島強介の墓を訪ねて手を合わせてくる。もちろん、しっかりとその写真やら銘文を書き写し、採寸までしてきたのは言うまでもない。本来なら、その墓表文字は強介絶筆の筆ゆえに手拓も欲しかったが、すでに本日の手拓用紙は底切れとなっていた。さあ、次回は暫くぶりに石友との愉快な石仏巡りである。今から楽しみである。
諦めて、次は延命寺さんへ行く。落ち葉掃除をしている住職ご内儀に挨拶して碑(いしぶみ)、いや正しくは墓碑調査のお願いをすると、どうぞごゆっくり調査してくださいという快諾を頂ける。何はともあれ、バケツと水を拝借して墓石掃除に取りかかるが、それは毎度の事ながら酷い汚れよう。しかも今回は二基を一度に調査するための墓石掃除なので、手拓を取れるようになるまでの状態にするのにそれだけでたっぷり一時間を要してしまった。そしてそれから手拓開始も、今回も両側面に碑陰まで碑文が刻まれている。一基を取り終えるだけで、10月に入ったというのに汗びっしょり。続いて二基目の墓碑に取りかかり、それらが終えたときには既に11時を過ぎていた。お礼の挨拶に行くと、綺麗に磨いてくれた御礼を謂われ、ついでに当寺に記録に残すような人物の墓碑が有ったことを教えてくれて嬉しいですとまで謂われてしまった。いつの日か、それらの調査報告内容を差し上げなければならないだろう。何しろ当寺hは、彼の蒲生君平が最初に学問を当時の住職から習ったお寺さんだけに、関心ある方々が多く訪ねるお寺さんなので、そうした点にも関心があるようだ。さて、問題はそれから、いや夕方に帰宅してからの話である。ザックをおろして早速本日の成果を取り出したところ、肝心な手拓した墓碑一基分の用紙がない!。お寺さんで、後始末をしているときに置き忘れたのか、その後で訪ねた八幡山公園で昼食のためにザックを開けたときに落としたのか、いずれにしてもナイ!、無い!の大騒ぎとなる。まあ、無くしたものは仕方なしと、言葉だけは潔く諦める。手拓を無くした碑文は、しっかり手写もしてきているので、清書には問題ないので…。
さて、延命寺さんの次は悩んだあげくに、昼食をのんびり取りたいために宇都宮の中心地にある八幡山公園へ行く。もちろん、それだけで行くわけが無く、昼食後は同地にある大きな碑(いしぶみ)を調査するためでもある。公園東側の三角点広場にてザックを広げて昼食とし、ついでにザックを枕にして大休憩となる。長袖シャツを着用してきたが暑くなり、それを脱いで半袖となってのノンビリタイムは暫くぶりである。半分はうとうとしながら、今年も残り少なくなったこれからの碑(いしぶみ)調査についてあれこれと考えながら…。また、これから行なおうとしている碑(いしぶみ)調査が、どんなに大変なことかも想像できずに…。
その碑(いしぶみ)写真が、ここへ掲載したものである。高さは、私の持っているメジャーでは計測不能。横幅だけで、1.8メートルもある。それ以上に問題なのは、その前に茂っている樹木の枝。写真もまともに撮れないので、まずは手の届く範囲の枝を折って何とか写せる状態にしてから撮影。そしてそれ以上に悩ましいのが、恐ろしいほどの碑文文字数。手写用紙を取り出し、最初に数えたのがその一行文字数と行数。本文だけで一行43文字×行数28行。その他を合わせると碑表だけで1300文字にもなる。それをこれから細心の注意を払いながら一文字ずつ手写することになるが、1時間休みもせずに手を動かして手写出来たのはその三分の一。結局、碑陰の交名を抜かして手写が終えるまでに3時間半もかかってしまった。多分、これまでの栃木県内の碑文では1、2位を競う文字数ではないかと、その手写が終わったときには脚がけいれんするほどの疲れようだった。もちろん、これを手写した者は多分私以外には今までいないだろうという、半分はしてやったりの思いもある。もっとも、家内にその手写様子を見られたら、だから腰を悪くすると叱られそうである。帰路は、そんなヨロヨロした足取りで八幡山公園を降り、自転車を置いていた場所まで来たがまだ3時半を過ぎたばかり。そこで欲を出し、その近くの八幡山墓地を訪ねて、宇都宮の勤皇の志士として名高かい児島強介の墓を訪ねて手を合わせてくる。もちろん、しっかりとその写真やら銘文を書き写し、採寸までしてきたのは言うまでもない。本来なら、その墓表文字は強介絶筆の筆ゆえに手拓も欲しかったが、すでに本日の手拓用紙は底切れとなっていた。さあ、次回は暫くぶりに石友との愉快な石仏巡りである。今から楽しみである。